深夜の市電に潜む影

実話風

鹿児島の市街地は、昼間は活気にあふれ、桜島を望む風景が観光客を魅了する。だが、夜になると、その雰囲気は一変する。特に、街の中心部を走る市電の終電間際ともなれば、車内は不気味な静寂に包まれる。今から10年ほど前のこと、ある夏の夜、私はそんな市電に乗っていた。

私は当時、大学を卒業したばかりで、市内の小さな広告代理店に勤めていた。仕事は慣れないことばかりで、残業が続き、終電近くで帰宅することが多かった。その夜も、クライアントとの打ち合わせが長引き、時計はすでに23時を回っていた。疲れ果てた私は、いつものように市電の停留所に向かった。

市電のホームは、街灯の薄暗い光に照らされ、人の気配がほとんどなかった。遠くで犬の遠吠えが聞こえ、蒸し暑い夜の空気が肌にまとわりつく。やがて、ガタゴトと音を立てながら市電がやってきた。車内には数人の乗客しかおらず、私は空いた席に腰を下ろした。

窓の外には、夜の街が流れていく。商店街のシャッターは固く閉ざされ、時折、ネオンの光がチカチカと点滅している。車内は静かで、乗客たちはみな下を向いてスマホをいじるか、うとうとしている。私はイヤホンを耳に差し込み、音楽で疲れを紛らわせようとした。だが、その時、ふと違和感を覚えた。

車内の空気が、急に重くなったような気がしたのだ。まるで、誰かに見られているような、背筋がゾクッとする感覚。イヤホンを外し、辺りを見回したが、乗客たちは変わらず無関心な様子だ。気のせいかと思い、再び窓の外に目をやると、反射したガラスに奇妙なものが映っていることに気づいた。

私の隣の席、誰も座っていないはずの場所に、ぼんやりとした人影が映っていた。驚いて振り返ったが、席は空っぽだ。心臓がドクンと高鳴り、冷や汗が背中を伝う。再び窓を見ると、影は消えていた。動揺しながらも、私は自分を落ち着かせようと深呼吸した。疲れているんだ、幻覚だ、きっとそうだ。

だが、その後も奇妙な出来事は続いた。市電が次の停留所で止まったとき、誰も乗ってこなかったのに、車内の空気がさらに冷たく感じられた。まるで、目に見えない何かが車内に忍び込んできたかのように。そして、車内アナウンスが流れるはずのない時間に、スピーカーからかすかなノイズが聞こえてきた。ザザッ、ザザッ、という音に混じって、誰かが囁くような声。聞き取れないが、確かに人の声だった。

私は恐怖で体が硬直した。隣に座っていた中年男性が、ふと顔を上げ、私をチラリと見た。彼の目は、まるで私を値踏みするような、冷たく鋭い光を放っていた。すぐに目を逸らしたが、その視線が背中に突き刺さるようだった。もう我慢できず、次の停留所で降りることにした。だが、ドアが開く直前、車内が一瞬、真っ暗になった。

停電? いや、ほんの一瞬のことだった。電気が戻ると、車内の乗客は変わらずそこにいたが、さっきの男性の姿だけが消えていた。私の心臓は早鐘のように鳴り響き、足が震えた。ドアが開くや否や、私はホームに飛び出した。背後で市電のドアが閉まり、ガタゴトと走り去っていく。その音が、まるで私を嘲笑うようだった。

家までの道のりを、ほとんど走るようにして帰った。部屋にたどり着き、鍵をかけた瞬間、ようやく息をつけた。だが、その夜は一睡もできなかった。あの市電での出来事が頭から離れず、窓の外を覗くたびに、誰かが立っているような気がした。

翌日、会社でその話を同僚にしたところ、彼女の顔が青ざめた。「それ、聞いたことある」と彼女は言った。なんでも、10年以上前、鹿児島の市電で事故があったという。終電間際、酔っ払った男が線路に飛び込み、電車に轢かれて死んだ。その男は、生前、誰かを呪うような言葉を吐きながら死んだと言われている。それ以来、終電近くの市電では、奇妙な体験をする人が後を絶たないというのだ。

私はその話を聞いて、背筋が凍りついた。あの夜の男性の目。あの冷たい視線は、まるで私に何かを訴えかけているようだった。そして、窓に映った影。あれは、ただの幻覚だったのだろうか?

それからというもの、私は終電に乗ることを避けるようになった。だが、時折、夜の街を歩いていると、遠くで市電のガタゴトという音が聞こえる。そのたびに、あの夜の恐怖が蘇る。あの影は、今も市電のどこかに潜んでいるのかもしれない。そして、誰かが乗ってくるのを、じっと待っているのかもしれない。

今でも、鹿児島の市街地を通る市電を見ると、あの夜のことを思い出す。街の喧騒に紛れて、誰も気づかない場所で、何かが息を潜めている。あなたがもし、鹿児島で終電に乗ることがあれば、窓の反射をよく見てほしい。そこに映るのは、本当にあなただけの姿だろうか?

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