北海道の冬は、冷たく、静かだ。雪が降り積もり、街灯の光が白い地面に反射して、どこか不気味な明るさを放つ。今から10年ほど前、2015年の冬、札幌の市街地に住む大学生の俺は、いつものようにバイトを終えて家路についていた。時刻は夜の11時を少し回った頃。すすきのの喧騒を抜け、住宅街に差し掛かる裏路地を歩いていた。
その夜はいつもより冷え込んでいた。吐く息が白く凍り、頬がキリキリと痛むほどだった。イヤホンから流れる音楽を聴きながら、雪に埋もれた道を急ぎ足で進んでいた。路地は狭く、両側に古いアパートや小さな店舗が並んでいる。普段なら気にも留めないような場所だが、その夜は何か妙な空気を感じていた。まるで、誰かに見られているような、背筋に冷たいものが走る感覚だ。
最初は気のせいだと思った。バイトの疲れと寒さで神経が過敏になっているだけだと自分に言い聞かせた。だが、歩みを進めるほど、その感覚は強くなった。後ろを振り返っても誰もいない。雪の降る音と自分の足音だけが響く。それでも、視線のようなものは消えない。まるで、闇の奥から何かがじっと俺を見つめているようだった。
路地の突き当たりに差し掛かったとき、ふと、視界の端に何かが見えた。電柱の陰に立つ人影だ。暗くて顔は見えないが、黒いコートを着た細長いシルエットが、じっとこちらを向いているように感じた。立ち止まって目を凝らしたが、雪のせいで視界がぼやけ、はっきりとはわからなかった。「ただの通行人だろ」と自分を納得させ、歩き続けた。でも、心臓がドクドクと脈打つのが止まなかった。
その人影を過ぎた後、急に背後でガサッという音がした。雪を踏む音だ。振り返ると、さっきの電柱の陰にはもう誰もいなかった。でも、足跡はなかった。雪の上に、俺の足跡だけが続いている。まるで、さっきの人影はそこに立っていただけで、動いていなかったかのように。
「なんだよ、これ…」と呟きながら、俺は歩く速度を上げた。家まではあと10分ほど。早く暖かい部屋に帰りたかった。だが、背後の気配は消えない。それどころか、だんだん近づいてくるような感覚がした。足音は聞こえない。なのに、まるで誰かがすぐ後ろにいるような、息遣いすら感じる距離にいるような恐怖が襲ってきた。
やがて、俺は自分のアパートが見える交差点にたどり着いた。そこは街灯が明るく、近くにコンビニもある開けた場所だ。ほっと一息ついた瞬間、背後で再びガサッという音がした。今度ははっきり、雪を踏む音。そして、かすかな笑い声のようなものが聞こえた。低く、くぐもった、女の声のようなものだった。
振り返った。そこには誰もいない。ただ、雪が降り続ける静かな交差点だけが広がっていた。だが、俺の足跡のすぐ横に、もう一組の足跡が並んでいることに気づいた。小さくて、まるで子供のもののような足跡だ。でも、さっきまでそんなものはなかった。俺は確信していた。だって、さっき振り返ったとき、俺の足跡しかなかったのだから。
心臓が喉まで跳ね上がるような恐怖を感じながら、俺はアパートの階段を駆け上がった。鍵を開け、部屋に飛び込み、ドアを閉めた瞬間、ようやく息をつけた。部屋の中は暖かく、静かだった。でも、窓の外を見ると、雪が降り続ける中、さっきの交差点に、黒い人影が立っているのが見えた。遠くて顔は見えない。ただ、じっとこちらを見ているような気がした。
その夜、俺は一睡もできなかった。窓の外を何度も確認したが、人影は消えていた。でも、あの足跡と笑い声が頭から離れなかった。次の日、バイト先の同僚にその話をすると、彼は顔を青くしてこう言った。「お前、あの路地を通ったのか? あそこ、昔、変な噂があったんだよ」
彼によると、10年以上前、その路地で若い女が雪の夜に亡くなったらしい。事故だったのか、自ら命を絶ったのか、詳しいことは誰も知らない。ただ、その女の霊が雪の夜に現れるという噂が、近隣の住民の間で囁かれていた。しかも、彼女は決まって若い男に近づき、笑い声とともに追いかけてくるのだという。
俺は笑ってその話を流したかったが、あの夜の恐怖があまりにも鮮明で、冗談だと片付けられなかった。それ以来、俺は夜遅くにあの路地を通るのをやめた。だが、時折、雪の降る夜に窓の外を見ると、遠くの交差点に黒い人影が立っている気がする。そして、かすかに、くぐもった笑い声が聞こえるのだ。
あれから10年が経つが、今でも雪の降る夜はあの恐怖が蘇る。札幌の市街地、どこにでもあるような裏路地。あの場所は、俺にとって二度と近づきたくない場所になった。雪は全てを覆い、静寂を作り出すが、その下には何か得体の知れないものが潜んでいるのかもしれない。少なくとも、俺はそう信じている。
今、こうしてこの話を書いていると、窓の外で雪が降り始めた。静かに、音もなく積もっていく。あの笑い声が、また聞こえてくるような気がして、思わず背後を振り返ってしまう。でも、そこには誰もいない。ただ、俺の心の中に、あの夜の恐怖が今も生き続けている。