それは、ある夏の夜の出来事だった。
神奈川県の山深い地域に、昔から「霧の森」と呼ばれる場所がある。昼間でも薄暗く、湿った空気が漂うその森は、地元の人々の間では「入ったら二度と戻れない」と囁かれていた。だが、好奇心旺盛な若者たちにとって、そんな言い伝えは冒険心をくすぐるものだった。
主人公のユウトは、大学を卒業したばかりの22歳。地元で生まれ育ち、霧の森の噂を子どもの頃から聞いてきた。友人のケンタとサキ、ミホの4人で、夏の終わりにキャンプを計画した。行き先は、もちろん霧の森。ユウトは半信半疑だったが、ケンタの「怖い話なんてただの作り話だろ!」という軽口に乗り、4人は意気揚々と森へと向かった。
森の入り口に着いたのは、夕暮れ時だった。空は茜色に染まり、遠くでカエルの鳴き声が響く。木々の間からは、すでに薄い霧が漂い始めていた。ユウトは少しだけ胸騒ぎを感じたが、仲間たちの笑い声に押され、テントを張る場所を探し始めた。
「ここ、なんか変な感じしない?」ミホが小声で呟いた。彼女は普段から霊感が強いと自称しており、今回のキャンプにも最初は乗り気ではなかった。ユウトは笑って「またそんなこと言って」と茶化したものの、ミホの顔は真剣だった。
テントを張り終え、焚き火を囲んでビールを飲みながら、4人は怖い話を始めた。ケンタが得意げに「霧の森には、昔、村人を攫う妖怪が住んでたって話だよ」と語り出した。伝説によれば、その妖怪は「霧女」と呼ばれ、霧の深い夜に現れ、甘い声で人を誘い、森の奥へと連れ去るという。一度連れ去られた者は二度と戻らず、森のどこかで彷徨い続ける亡魂になるとされていた。
「そんなの、ただの昔話だろ」とユウトは笑ったが、ミホは「やめてよ、ほんと怖いから」と震えていた。サキは「まぁ、面白そうじゃん。ちょっと森の奥、覗いてみない?」と提案し、ケンタが「いいね!冒険だ!」と乗っかった。ユウトも断る理由がなく、懐中電灯を手に4人で森の奥へと足を踏み入れた。
森の中は、予想以上に暗く、霧が濃さを増していた。懐中電灯の光も、霧に飲み込まれるように弱々しく、木々の間を縫うように進む4人の足音だけが響いた。しばらく歩くと、ケンタが突然立ち止まった。「おい、なんか聞こえなかった?」彼の声には、普段の軽快さが消えていた。
「何?何も聞こえないけど」とサキが答えたが、ユウトも何かを感じていた。遠くから、微かに、女の声のようなものが聞こえてくる。それは歌とも、囁きともつかない、甘く、どこか哀しげな響きだった。「気のせいだろ」とユウトは自分を励ますように言ったが、ミホは「戻ろう、ねえ、戻ろうよ」と怯えた声で訴えた。
だが、ケンタは「せっかくここまで来たんだから、もう少し進もうぜ」と強気だった。ユウトも、仲間を見捨てて戻るわけにはいかないと、渋々ついていった。霧はますます濃くなり、懐中電灯の光はほとんど役に立たなくなっていた。木々の間を漂う霧は、まるで生き物のように4人を包み込み、視界を奪った。
その時、突然、ミホが叫んだ。「誰かいる!」彼女が指差す先には、確かに人影のようなものがあった。白い着物をまとった女が、霧の中にぼんやりと浮かんでいた。長い黒髪が顔を覆い、その姿は現実のものとは思えないほど不気味だった。「霧女だ…」ミホが震える声で呟いた瞬間、女がゆっくりと顔を上げた。顔は見えなかったが、ユウトは全身が凍りつくような恐怖を感じた。
「走れ!」ケンタが叫び、4人は一斉に駆け出した。だが、霧の中で方向感覚を失い、どこをどう走っているのかわからなくなった。ユウトは必死でミホの手を握り、サキとケンタの姿を探したが、霧に吞まれ、2人の姿は見えなくなっていた。「ケンタ!サキ!」叫んでも、声は霧に吸い込まれるだけだった。
どれだけ走ったか、ユウトとミホはようやく森の入り口近くに戻ってきた。だが、ケンタとサキの姿はどこにもなかった。2人は震えながら助けを求め、地元の警察に連絡した。捜索隊が森に入ったが、ケンタとサキは見つからなかった。警察は「遭難した可能性が高い」と結論づけたが、ユウトとミホは信じられなかった。あの女の姿、あの囁きが、2人を連れ去ったのだと。
それから数週間、ユウトは毎夜のように悪夢にうなされた。夢の中で、霧の森に立つ女が彼を呼ぶ。「おいで…おいで…」甘い声が耳にこびりつき、目を覚ますたびに汗でびっしょりだった。ミホもまた、精神的に不安定になり、夜中に突然「まだそこにいる」と泣き叫ぶことがあった。
ある夜、ユウトは意を決して再び霧の森へ向かった。ケンタとサキを連れ戻すため、そしてあの妖怪の正体を知るためだ。懐中電灯を手に、霧の森に足を踏み入れると、すぐにあの囁きが聞こえてきた。「おいで…ユウト…」名前を呼ばれた瞬間、彼は全身が硬直した。声はすぐ近くから聞こえてくるのに、誰もいない。霧の中を進むと、木々の間に白い着物の女が立っていた。彼女が顔を上げた瞬間、ユウトは見た。顔はなかった。目も鼻も口もない、真っ白な面だった。
ユウトは叫び声を上げ、必死で逃げ出した。どれだけ走ったか分からないが、気づくと森の外にいた。だが、懐中電灯はなくなり、服は泥と汗で汚れ、まるで何時間も彷徨ったかのようだった。家に戻ると、鏡に映る自分の顔が、どこか変わっている気がした。目が落ち窪み、頬がこけ、まるで何かに取り憑かれたようだった。
それ以来、ユウトは霧の森には近づかない。だが、夜になると、時折、あの囁きが聞こえる気がする。「おいで…」と。ケンタとサキは今も見つかっておらず、霧の森は依然として地元の人々の間で恐れられている。ユウトは思う。あの夜、森に入ったのは、ただの好奇心ではなかったのかもしれない。霧女が、最初から彼らを呼んでいたのだ。
今も、霧の森では、深い霧が立ち込める夜、女の囁きが聞こえるという。あなたがもし、森の近くを通るなら、決してその声に耳を傾けてはいけない。さもないと、霧の奥に連れ去られ、二度と戻れないかもしれない。

