30年ほど前、岐阜県の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、昔から「出る」と噂される場所だった。集落の外れにある古い神社と、その裏手に広がる鬱蒼とした森が、訪れる者をどこか落ち着かなくさせる雰囲気を漂わせていた。集落に住む者たちは、その森には近づかないという暗黙のルールを持っていた。
私、仮にタカシと呼んでほしい。大学で民俗学を学んでいた私は、夏休みを利用して岐阜の山間部でフィールドワークを行うことにした。目的は、地方に残る怪談や伝承を収集すること。特にこの集落には、興味深い話が眠っていると聞きつけてやってきたのだ。集落に着いたのは、蒸し暑い夏の夕暮れ時。山の斜面に点在する古い家々は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
集落の入り口で、年老いた男に出会った。彼はヨシオじいさんと呼ばれ、集落で一番の古老だった。ヨシオじいさんは、私の目的を聞くと、顔を曇らせた。「若いもんが、そんな話を掘り起こすのは良くねえよ」と一言。それでも、私の熱意に根負けしたのか、彼は渋々話し始めた。「あの森には、昔から何かいる。夜になると、泣き声や笑い声が聞こえるってな。昔、若い娘がそこで…」と、そこで言葉を切った彼は、遠くの森をじっと見つめた。
ヨシオじいさんの話によると、数十年前、集落に住む若い女性が森の奥で姿を消したという。彼女は村一番の美人で、恋人と駆け落ちしようとしたが、親に反対され、追い詰められた末に森へ逃げ込んだらしい。それ以来、彼女の姿を見た者はいないが、夜な夜な森から不気味な声が聞こえるようになった。村人たちは、彼女の霊が彷徨っているのだと信じていた。
私は好奇心を抑えきれず、翌日の夜、懐中電灯を手に森へ向かった。昼間はただの木々が連なる森だったが、夜になるとまるで別の世界だった。木々の間を抜ける風が、まるで囁き声のように聞こえる。足元には朽ちた枝や葉が積もり、踏むたびにカサカサと不気味な音が響いた。懐中電灯の光が届く範囲は狭く、その先は真っ暗な闇が広がっていた。
しばらく歩くと、突然、冷たい風が頬を撫でた。夏の夜だというのに、背筋がゾクッとするほど冷たかった。すると、遠くからかすかに女の泣き声が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、明らかに人間の声だった。「助けて…」と、か細く、しかしはっきりと聞こえた。私は足を止め、耳を澄ませた。声は森の奥から聞こえてくるようだった。
恐れと好奇心がせめぎ合う中、私は声のする方へ進んだ。すると、木々の間に小さな祠を見つけた。苔むした石の祠で、扉は半開きになっていた。中を覗くと、埃をかぶった小さな人形が置かれていた。人形の目は、まるで私をじっと見つめているようだった。背後でまた泣き声が聞こえ、振り返ると、誰もいない。だが、明らかに何かの気配を感じた。空気が重くなり、まるで誰かに肩を掴まれているような感覚に襲われた。
慌てて祠から離れようとした瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると、木々の間に白い影が揺れた。女の姿だった。長い黒髪が顔を覆い、白い着物のようなものをまとっていた。彼女はゆっくりと私の方へ近づいてきた。私は恐怖で足がすくみ、動けなかった。彼女の顔は見えないが、明らかに私を見つめている。彼女の手が私の肩に触れた瞬間、冷たく、湿った感触が全身を貫いた。「なぜ…私を…見つけた…」と、掠れた声が耳元で響いた。
その瞬間、私は気を失った。気がつくと、森の入り口に倒れていた。懐中電灯は消え、辺りは静寂に包まれていた。時計を見ると、夜中の3時を過ぎていた。あの祠での出来事からどれだけ時間が経ったのかわからなかった。集落に戻ると、ヨシオじいさんが私の姿を見て青ざめた。「お前、あの森に行ったな」と一言。私が震えながら事情を話すと、彼は深くため息をついた。「あの女は、許されたいんだ。だが、誰も彼女を救えなかった。見つけた者を、道連れにしようとするんだよ」
それから私は二度とその集落に戻らなかった。だが、あの夜の出来事は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。岐阜の山奥の森、そこで彷徨う女の霊は、今も誰かを待ち続けているのかもしれない。あの冷たい手、掠れた声、そして私を見つめた目。あの祠に近づかなければ、と思うたびに、背後で何かが動く気配を感じるのだ。
時折、夜中に目を覚ますと、遠くで女の泣き声が聞こえる気がする。あの森に置き去りにされた何かは、決して私を離さないのかもしれない。