数年前、秋田県の山奥にひっそりと佇む廃村を訪れた時の話だ。
私は大学で民俗学を専攻していた。フィールドワークの一環として、秋田県の山間部に点在する廃村の伝承を調べることにした。選んだのは、県北部の山奥にある、かつて炭鉱で栄えたという小さな集落。地図にすら載っていないその場所は、数十年前に住民が全員いなくなったとされている。理由は不明。地元の人々は口を揃えて「あそこには行かない方がいい」と言うが、具体的な話は誰も語らなかった。
秋田の晩秋は冷たく、空気はすでに冬の匂いを帯びていた。私は友人のカメラマンと二人で、軽い気持ちでその廃村に向かった。車を降り、獣道のような細い道を歩くこと数時間。ようやく目的の集落にたどり着いた。そこは、朽ちかけた木造の家屋が十数軒、苔むした石垣に囲まれて点在する、静かな廃墟だった。空はどんよりと曇り、風が枯葉を巻き上げる音だけが響く。まるで時間が止まったような場所だった。
「なんか、変な感じがするな」
友人がカメラを構えながら呟いた。彼の声には、普段の軽快さがなかった。私は笑って「ビビってるの?」とからかったが、正直、私の胸にも得体の知れない不安が広がっていた。廃村の空気は、どこか重く、視線のようなものがまとわりついている気がした。
私たちは集落の中心にある、古い神社のような建物に目を付けた。屋根は半分崩れ、鳥居は傾き、社の扉は錆びた鎖で固く閉ざされていた。友人が「これ、撮っとこうぜ」と近づいた瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると、誰もいない。ただ、木々の間から冷たい風が吹き抜けただけだ。
「気のせいだろ」
友人は笑ってカメラのシャッターを切ったが、その音がやけに大きく響いた。私は胸騒ぎを抑えながら、社の周りを調べ始めた。すると、地面に奇妙な模様が刻まれていることに気づいた。円形に並んだ石の配置は、何かの儀式を思わせるものだった。模様の中心には、黒ずんだ染みのようなものがあった。まるで何かが長い間そこに染みついたかのように。
「これ、血じゃね?」
友人が冗談めかして言ったが、その声は震えていた。私は「馬鹿言うな」と返すのが精一杯だった。だが、その染みをじっと見ていると、まるでそれが動いているような錯覚に襲われた。目をこすって見直すと、ただの染みに戻っている。疲れているだけだ、と思い込もうとした。
日が傾き、辺りが薄暗くなってきた。私たちは村の奥にある、比較的状態の良い一軒家に入ってみることにした。家の中は埃だらけで、畳はカビ臭く、家具は倒れたままだった。だが、驚くべきことに、食器棚には茶碗や箸が整然と並び、まるで誰かが今も暮らしているかのようだった。友人が「不気味すぎるな」と呟きながら、カメラを構えた。その時、家の奥からカタン、と小さな音が聞こえた。
「何だ?」
私たちは顔を見合わせ、音のした方へ向かった。奥の部屋は、かつて寝室だったらしい。古い布団が床に敷かれたまま、壁には家族写真らしきものが傾いて掛かっていた。写真の中の家族は、なぜか全員目元が黒く塗りつぶされていた。私は背筋に冷たいものを感じた。友人も無言で写真を見つめ、カメラを下ろした。
その時、家の外から低い唸り声のようなものが聞こえてきた。風の音にしては不自然で、まるで誰かが喉を鳴らしているような、動物とも人間ともつかない音だった。私たちは慌てて外に出たが、誰もいない。辺りはすでに夕闇に包まれ、廃村全体が不気味な静寂に支配されていた。
「帰ろう」
友人の声は切羽詰まっていた。私も同じ気持ちだった。だが、車を停めた場所まで戻るには、暗い山道を数時間歩かなければならない。懐中電灯の明かりを頼りに歩き始めたが、背後で何かがついてくるような気配が消えない。時折、木々の間からガサガサと音がする。振り返っても何も見えないが、気配はどんどん濃くなっていく。
「見られてる気がする」
友人が囁いた。その言葉に、私の心臓は一気に縮こまった。確かに、暗闇のどこかから、複数の視線が私たちを捉えているような感覚があった。懐中電灯を振り回しても、木々と闇しか見えない。だが、明らかに何かいる。足音ではない、もっと不規則で、這うような音が、すぐ近くで聞こえる。
どれだけ歩いただろうか。ようやく車が見えた時、ほ個人的には安堵の息をついた。だが、その瞬間、友人が立ち止まり、震える声で言った。
「…あそこ露天の門だ」
彼が指さしたのは、廃村の入り口にあった、傾いた鳥居の方向だった。私は凍りついた。あの不気味な社の鳥居。あの場所に、私たちを引き戻そうとする何かがあるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。車に乗り込み、急いでその場を離れたが、助手席の友人は無言で震えていた。彼の手には、さっきまで握っていたカメラがなかった。
「カメラ、落としたのか?」
私が聞くと、彼は青ざめた顔で首を振った。
「落としたんじゃない。あそこに置いてきた。…あれ、持って帰ったらヤバい気がしたんだ」
その夜、宿に戻った私たちは、どちらも一睡もできなかった。翌日、友人は新しいカメラを買い直したが、廃村の写真は一枚も撮れていなかった。あの村で何が起きたのか、なぜ住民が消えたのか、結局わからずじまいだった。だが、時折、夜中にあの唸り声や這うような音が耳元で蘇る。秋田の山奥には、二度と近づかないと心に誓った。
それから数ヶ月後、大学の研究室で、秋田の伝承を調べていた時、奇妙な記述を見つけた。かつて炭鉱で栄えた村が、ある夜を境に全員が姿を消したという。その原因は、「山の神の怒り」とだけ記されていた。そして、その村の神社には、決して開けてはいけない封印があるという。私は背筋が凍る思いだった。あの黒い染み、あの模様。あれは、本当にただの染みだったのだろうか。
今でも、目を閉じると、あの廃村の風景が脳裏に浮かぶ。朽ちた家屋、傾いた鳥居、そして、暗闇の中で私たちを見つめる、名もなき何か。もう二度と、あの場所には戻らない。