鳴門の渦に潜む異界の囁き

ホラー

私は、徳島県の鳴門市に住む会社員だ。名前は特に重要じゃない。30歳を少し過ぎた頃、仕事のストレスから逃れるように、週末はよく鳴門の海岸線をドライブしていた。鳴門の渦潮は観光名所として有名だが、地元民の私にはただの日常の風景だった。それでも、あの渦の不思議な動きには、どこか人を引き込む魔力がある。夜の海は特に神秘的で、波の音と闇が混ざり合い、まるで別の世界への入り口がそこにあるかのようだった。

ある晩、いつものように車を走らせ、鳴門大橋の近くの展望台に立ち寄った。時刻は深夜0時を回っていた。観光客は誰もおらず、静寂が辺りを支配していた。海面に映る月明かりが、渦潮の動きに合わせて揺れている。私はその光景に見とれながら、ふと奇妙な感覚に襲われた。背筋に冷たいものが走り、誰かに見られているような気がしたのだ。

振り返っても誰もいない。駐車場には私の車だけがポツンと停まっている。気のせいだと自分を納得させ、車に戻ろうとしたその時、波の音に混じって、低い囁き声が聞こえた。「…来い…」

一瞬、耳を疑った。風の音か、それとも私の疲れた頭が作り出した幻聴か。しかし、声はまた聞こえた。「…ここだ…来い…」 今度ははっきりと、海の方から聞こえてくる。私は思わず足を止め、暗い海面を見つめた。渦潮がいつもより激しく回転しているように見えた。いや、錯覚ではない。渦の中心が、まるで生き物のようにうねり、黒い影がその中を泳いでいるような気がした。

恐怖が全身を包み、足がすくんだ。だが、同時に、なぜかその渦に近づきたいという衝動が湧き上がってきた。まるで何かに操られるように、私は展望台の柵を越え、岩場に降りていった。普段なら絶対にしない行動だ。波しぶきが顔にかかり、冷たい海水の匂いが鼻をついた。渦の中心が、どんどん大きく見えてくる。まるで私を飲み込もうとしているかのように。

「…お前も…見えるだろう…?」

声がまた聞こえた。今度はすぐ近く、耳元で囁くように。私は思わず叫び声を上げ、岩場に尻もちをついた。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が止まらない。そこにいたのは、黒い人影だった。顔は見えない。いや、顔がない。頭部はただの黒い塊で、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。そいつはゆっくりと私に近づいてきた。足音はなく、ただスーッと滑るように動く。

「…お前も…来るんだ…」

その言葉に、私は全身の力が抜けるのを感じた。逃げなきゃいけないのに、足が動かない。まるで体が別のものでできているかのように、意志とは関係なく震えていた。黒い影は私の目の前で立ち止まり、渦の方を指差した。そこには、渦潮の中心に、巨大な目のようなものが浮かんでいた。人間の目ではない。爬虫類のような、冷たく光る瞳だった。それが私をじっと見つめている。

「…お前は…選ばれた…」

その瞬間、頭の中で何かが弾けた。次の記憶は、車の中で目を覚ました時のものだ。時計は朝の5時を指していた。全身が汗でびっしょりで、服は海水で濡れていた。展望台には誰もおらず、車も私のものだけ。まるで何もなかったかのように、朝の海は穏やかだった。だが、私の心は恐怖で凍りついていた。あの渦、あの影、そしてあの目は、夢ではなかった。確信があった。

それから数日、私は仕事も手につかず、夜になるとあの囁き声が頭の中で響くようになった。寝ようとすると、目の前にあの巨大な目が浮かぶ。ある夜、とうとう我慢できなくなり、地元の古老に相談しに行った。彼は鳴門の漁師で、海の伝説に詳しい人だった。

私の話を聞くと、老人は顔を曇らせた。「お前が見たのは、渦の向こうのものだ」と彼は言った。「鳴門の渦は、古くから異界への門だと言われている。そこには、この世界のものじゃない存在が潜んでいて、時折、選ばれた人間を呼ぶんだ。お前が無事に戻ってこれたのは奇跡だ。だが…」彼は言葉を切り、私をじっと見つめた。「お前はまだ、その目に見られている」

背筋が凍った。老人は、決して海に近づかないこと、そして夜の鳴門には絶対に行かないようにと忠告した。だが、それだけでは終わらなかった。家に帰ると、部屋の窓に、かすかに渦のような模様が浮かんでいた。まるで誰かが指で描いたように。不気味なことに、その模様は日を追うごとに大きくなっていく。夜になると、窓の外から囁き声が聞こえる。「…戻ってこい…」

私は恐怖に耐えきれず、鳴門を離れた。徳島市内のアパートに引っ越し、できるだけ海から遠ざかるようにした。だが、どこにいても、あの渦のイメージが頭から離れない。夢の中で、私はいつもあの岩場に立っている。黒い影がそばにいて、渦の中心の目が私を見つめている。そして、毎回同じ言葉を聞く。「お前は逃げられない」

今でも、静かな夜には、遠くから波の音が聞こえる気がする。それはただの幻聴かもしれない。だが、時折、鏡に映る自分の瞳が、まるで爬虫類のようにつり上がっているように見える瞬間がある。そのたびに、私はあの夜、渦の向こうに何かを置いてきてしまったのではないかと思う。あの異界の目は、私をまだ見ている。いや、もしかしたら、私の一部はすでにその渦の中に取り込まれているのかもしれない。

もし、あなたが鳴門の渦を訪れることがあれば、夜は絶対に近づかないでほしい。渦の向こうには、あなたの想像を超えるものが待っている。そして、一度その目に選ばれたら、もう二度と逃れることはできないのだから。

タイトルとURLをコピーしました