数年前、福島県の山深い集落に住む私の友人が、奇妙な体験をしたと語ってくれた。彼は地元で生まれ育ち、村の歴史や言い伝えに詳しい男だった。だが、その夜の出来事は、彼の知識を超えた何かだった。
その集落は、福島県の内陸部、深い森に囲まれた小さな村だった。人口は少なく、若い者は都会へ出て行き、残されたのは高齢者ばかり。村の外れには、数十年前に火事で全焼したとされる古い屋敷の廃墟があった。地元では「触れてはいけない場所」として、子供の頃から近づくことを禁じられていた。焼け落ちたはずの屋敷だが、なぜか骨組みだけは朽ちずに残り、夜になると不気味な影を落とす。村人たちは「あの家にはまだ何かいる」と囁き、誰も近寄らない。
友人はその日、村の古老から頼まれ、廃屋の近くにある祠に供物を届けることになった。普段なら昼間に済ませる用事だが、その日は村の祭りの準備で忙しく、夜遅くになってしまった。月明かりが薄く、森の奥から聞こえる虫の声が妙に遠く感じる夜だった。彼は懐中電灯を手に、細い山道を進んだ。祠は廃屋のすぐ裏手にあり、近づくにはどうしてもその不気味な屋敷の前を通らなければならない。
「なんか、嫌な感じがするんだよな…」
彼はそう呟きながら、廃屋の前に立った。黒ずんだ柱と崩れかけた壁が、月光に照らされて異様な雰囲気を放っている。風がないのに、どこからかヒュウヒュウと音が聞こえる。まるで誰かが息を吹きかけているような、妙に生々しい音だった。彼は急いで祠に向かおうとしたが、その瞬間、廃屋の奥からかすかな声が聞こえた。
「…おいで…」
声は小さく、まるで子供のようだった。だが、その響きにはどこか不自然な、機械のような冷たさがあった。彼は凍りついた。懐中電灯を握る手が震え、汗が背中を伝う。祠に供物を置いて一刻も早く立ち去ろうと決めたが、足が動かない。まるで何かに見られているような、背筋を這うような視線を感じた。
「誰だ!?」
彼は思わず叫んだが、返事はない。代わりに、廃屋の奥からカタカタと何かが動く音が聞こえてきた。木の床を爪で引っ掻くような、耳障りな音。懐中電灯を向けると、廃屋の窓枠に何か白いものが一瞬映った。人の形…いや、人の形をした何か。ぼん やりとした輪郭は、まるで霧が固まったように不確かだった。
彼は恐怖に駆られ、祠に供物を投げ置くと、廃屋を背に走り出した。だが、どれだけ走っても、背後からカタカタという音が追いかけてくる。振り返る勇気はなかった。息が切れ、足がもつれそうになる中、ようやく村の明かりが見えてきた。だが、その時、背後で再びあの声が響いた。
「…どこ行くの…?」
今度ははっきりと、耳元で囁かれたような声だった。彼は悲鳴を上げ、転がるように家に飛び込んだ。ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、窓の外に何か黒い影が動いた気がした。だが、懐中電灯を向けても何も見えない。心臓がバクバクと鳴り、汗で服がびっしょりだった。
翌朝、彼は村の古老に昨夜のことを話した。古老は顔を曇らせ、こう言った。
「あの廃屋には、昔、火事で死んだ家族が住んでた。だが、ただの火事じゃなかったって噂がある。家族は何か悪いものに取り憑かれて、互いに殺し合ったって…。それ以来、あの家には何か得体の知れないものが棲みついてる。祠に供物を置くのは、その『何か』を鎮めるためなんだよ。」
彼は背筋が寒くなった。古老は続けた。
「でもな、供物を置くだけじゃ足りない時がある。あの家は、時々『誰か』を呼ぶんだ。呼ばれた人間は、決して戻ってこられない…。」
その話を聞いてから、友人は二度と廃屋の近くには行かなかった。だが、奇妙なことに、彼の家では夜な夜な窓を叩く音が聞こえるようになった。カタカタ、カタカタ。まるで誰かが中に入ろうとしているように。カーテンを開ける勇気はなく、彼はただ布団をかぶって震えるだけだった。
数ヶ月後、彼は村を出た。都会での生活を始めた彼は、最初のうちは安堵していた。だが、ある夜、ふと目を覚ますと、枕元でかすかな囁きが聞こえた。
「…やっと見つけた…」
彼は飛び起きたが、部屋には誰もいない。窓の外を見ると、街灯の光に照らされた路地に、ぼんやりとした白い影が立っていた。まるで廃屋で見たあの影と同じだった。彼は叫び声を上げ、電気をつけたが、影は消えていた。
それ以来、彼は夜に一人でいることを極端に恐れるようになった。誰かに話すたび、「作り話だろ」と笑われるが、彼の目には本物の恐怖が宿っていた。村に残したあの廃屋は、今も静かに佇んでいるという。だが、誰も近づかない。なぜなら、夜になると、廃屋の奥から囁き声が聞こえるからだ。
「…おいで…」
その声は、まるで次の誰かを待っているかのように、夜の闇に溶けていく。