雪闇に潜む赤い目の怪物

モンスターホラー

富山県の山奥、冬の夜は息を呑むほど静かだった。今から30年ほど前、1990年代初頭の話だ。俺は当時、大学を卒業したばかりで、地元の小さな建設会社に勤めていた。実家から車で1時間ほどの山間部にある集落で、冬季の道路補修の仕事を請け負っていた。現場は標高の高い山道で、冬になると雪に閉ざされるような場所だった。携帯電話なんてまだ普及しておらず、連絡手段は無線機か公衆電話だけ。夜になると、集落の明かりすら届かない闇が広がる。

その年、12月の末。記録的な大雪が降り、作業は難航していた。俺と同僚のK、ベテランの職人Tさん、そして新人のYの4人で、凍てつく山道で舗装の補修をしていた。昼間はまだ良かった。雪が降り積もる中でも、仲間と冗談を言い合いながら作業を進められた。だが、夜になると空気が変わった。雪は音を吸い込み、懐中電灯の光は闇に飲み込まれる。風が木々を揺らす音だけが、時折、不気味に響いた。

ある晩、作業が予定より遅れ、夜の10時を回っていた。Tさんが「そろそろ切り上げよう」と言うと、Yが突然、顔を青くして言った。
「さっきから、なんか変な音がするんですけど……」
俺たちは耳を澄ませた。確かに、雪の降る音とは違う、低い唸り声のようなものが遠くから聞こえてくる。風の音にしては不規則で、まるで何かが喉を鳴らしているような響きだった。Tさんが「獣だろ。クマかイノシシが近くにいるんだ」と笑いながら言ったが、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。富山の山にクマはいるが、冬眠の時期だ。こんな雪深い夜に動き回るなんてあり得ない。

無線機で本部に連絡しようとしたが、雑音ばかりで繋がらない。仕方なく、俺たちは道具を片付け、車に戻ることにした。車は山道の入り口、集落から数キロ離れた場所に停めてあった。懐中電灯を手に、雪を踏みしめながら歩く。だが、Yがまた立ち止まった。
「ねえ、なんか……見られてる気がする」
彼の声は震えていた。俺もKも、反射的に周囲を見回した。雪に覆われた木々の間、闇が蠢いているように見えた。Tさんが「ビビるなよ、気のせいだ」と一蹴したが、俺の背筋には冷たいものが走った。

その時、雪の表面に何か赤い光がチラッと映った。懐中電灯を向けると、木々の奥、10メートルほど先に、赤く光る二つの目があった。人間のものではない。異様に大きく、まるで血のような赤だった。俺たちは凍りついた。Tさんが「なんだあれ……」と呟いた瞬間、その目はスッと消えた。まるで闇に溶けるように。

「走れ!」
Tさんの叫び声で我に返った。俺たちは一斉に車に向かって走り出した。雪が深く、足を取られながら必死で逃げた。背後から、さっきの唸り声が近づいてくる。振り返る余裕なんてなかったが、Yが「来てる! 何か来てる!」と叫んだ。その声に混じる恐怖が、俺の心臓を締め付けた。

車にたどり着き、ドアを叩きつけるように閉めた瞬間、Kが運転席でエンジンをかけた。だが、車は動かない。タイヤが雪に埋まり、空回りしている。窓の外を見ると、闇の中にまたあの赤い目が浮かんでいた。今度はもっと近く、5メートルも離れていない。懐中電灯を向けても、その光は届かず、闇に吸い込まれるだけだった。

「何だよ、あれ! 何だよ!」
Yが泣きそうな声で叫ぶ中、Tさんが無線機を手に叫んだ。
「誰か! 助けてくれ! ここに何かいる!」
だが、応答はない。赤い目はゆっくりと近づいてくる。車が揺れ、まるで何か巨大なものがぶつかったかのようだった。俺は助手席で、窓の外にそいつの姿を初めて見た。黒い毛に覆われた、巨大な獣のようなシルエット。だが、顔は……顔がなかった。赤い目だけが浮かんでいた。人間の背丈より大きく、異様に長い腕が雪を掻き分けるように動いていた。

その時、車のエンジンがようやく唸りを上げ、タイヤが雪を噛んだ。Kがアクセルを踏み込み、車が動き出した。赤い目は一瞬、追いかけてくるように見えたが、闇に消えた。俺たちは集落まで一気に車を飛ばし、ようやく明かりが見えた時、全員が息を吐いた。

翌朝、俺たちは現場に戻った。雪の上には、俺たちが逃げた足跡と、車のタイヤ痕だけがあった。だが、Tさんが顔を強張らせて指さした。車の周囲に、異様に大きな足跡があった。人間のものではない。爪痕が深く刻まれ、まるで何かが車を追いかけた証拠のようだった。

それ以来、俺はその山道の夜間作業には行っていない。Yは会社を辞め、Kは「あの夜のことは忘れろ」と言うようになった。Tさんだけは、時折、遠くを見つめて「あれは絶対、ただの獣じゃなかった」と呟いていた。地元の古老に話を聞くと、昔からあの山には「赤目の鬼」が住むという伝説があったそうだ。雪の夜に現れ、迷い込んだ者を喰らう怪物。科学では説明できない何かだと、俺は今でも信じている。

あの赤い目が、俺の夢に現れることがある。雪の闇の中で、じっと俺を見つめている。あの夜、俺たちが本当に逃げ切れたのか、時々、わからなくなる。

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