廃校の夜鳴き

ホラー

それは、ある夏の夜のことだった。

岩手県の山深い小さな町に、俺は仕事で訪れていた。東京から遠く離れたこの地は、昼間は静かで穏やかな田舎町だったが、夜になるとどこか異様な雰囲気が漂っていた。俺は地元の小さな会社でシステムのメンテナンスをするために数日間滞在することになっていて、宿泊先は町外れにある古い民宿だった。

その民宿は、築50年は軽く超える木造の建物で、廊下を歩くたびに床がきしむ音が響いた。宿の主人は無口な老人で、夕飯の後に「夜はあんまり外に出ない方がいい」とだけ言って、すぐに奥に引っ込んでしまった。都会育ちの俺には、その言葉が妙に重く感じられた。だが、仕事の疲れもあって、深く考えることなくその夜は早々に眠りについた。

翌日、仕事が予定より早く終わった。町の人たちと軽く飲む機会があり、地元の酒を酌み交わしながら雑談に花を咲かせていた。話題は自然とその町の歴史や風習に移っていった。すると、一人の男が少し声を潜めてこう言った。

「この町の山の奥に、廃校があるんだ。知ってるか?」

廃校。確かに、町に着いた時にバスの中から、山の斜面にポツンと佇む古い校舎を見た覚えがあった。コンクリートが剥がれ、窓ガラスが割れたままの、まるで時間が止まったような建物だった。

「そこ、夜に行くとやばいんだよ」と男は続けた。「昔、そこの学校で何かあったらしい。詳しいことは誰も話したがらないけど、夜になると変な音が聞こえるってさ。子供の泣き声とか、歌声とか……」

他の客たちが「またその話か」と笑いながら話を遮ったが、男の目は真剣だった。俺は少し興味を引かれたが、都会から来たよそ者として深入りするのは気が引けて、話を流した。それでも、どこか心の片隅にその話が引っかかっていた。

その夜、宿に戻ってからも、なぜかあの廃校のことが頭から離れなかった。スマホで地図を調べてみると、廃校は宿から歩いて30分ほどの場所にあるらしい。時計を見ると、夜の10時を少し回ったところ。好奇心が抑えきれなかった。少し見に行くだけなら、別に危険はないだろう。そう自分に言い聞かせ、懐中電灯とスマホだけを持って宿を抜け出した。

山道は思った以上に暗かった。街灯はほとんどなく、懐中電灯の光だけが頼りだった。夏なのに、夜の空気はひんやりと冷たく、虫の鳴き声すらまばらだった。道は徐々に細くなり、木々の間を縫うように進む。やがて、目の前に廃校のシルエットが浮かび上がった。

校舎は思った以上に荒れ果てていた。外壁は苔とツタに覆われ、窓のほとんどは割れているか、埃で曇っていた。鉄の門は錆びつき、半開きのまま動かなくなっているようだった。懐中電灯の光を校舎に向けると、コンクリートのひび割れがまるで生き物の傷跡のように見えた。

「こんなとこ、ただの廃墟だろ」

そう呟いて自分を落ち着かせようとしたが、心臓がドクドクと脈打っていた。好奇心と恐怖がせめぎ合いながら、俺は校舎の敷地に一歩踏み入れた。門をくぐると、足元で砂利がカサカサと音を立てた。その音が妙に大きく響き、思わず立ち止まって周囲を見回した。誰もいない。静寂だけがそこにあった。

校舎の入り口は、木製のドアが半分腐りかけた状態で開いていた。中に入ると、カビ臭い空気が鼻をついた。懐中電灯で照らすと、廊下の床には落ち葉やゴミが散乱し、壁には子供たちが描いたらしい落書きが薄っすらと残っていた。教室のドアはどれも開け放たれ、黒板や机がそのまま放置されているのが見えた。

「何だ、ただの廃墟じゃん」

そう自分に言い聞かせながら、廊下を進んだ。だが、奥に進むにつれて、どこか空気が重くなっていくような気がした。まるで、誰かに見られているような感覚。振り返っても、もちろん誰もいない。懐中電灯の光が揺れるたびに、影が不気味に動く。気のせいだと分かっていても、背筋がゾクゾクした。

ふと、遠くから小さな音が聞こえた。

「……ん……」

最初は風の音かと思った。でも、すぐにそれが違うと分かった。子供の声だ。かすかで、どこか悲しげな泣き声。俺は凍りついた。音は校舎の奥、恐らく二階の方から聞こえてくる。懐中電灯を握る手が震えたが、なぜか足は勝手にその方向へ向かっていた。好奇心か、恐怖か、それとも何か別の力が俺を動かしていたのか。

階段は埃だらけで、踏むたびにミシミシと音を立てた。二階に上がると、廊下はさらに暗く、懐中電灯の光が届かないほどだった。泣き声はまだ続いている。いや、泣き声だけじゃない。かすかに、子供の歌声のようなものも混じっている。聞き覚えのあるメロディだったが、歌詞は分からない。まるで遠くで、複数の子供たちが歌っているような、でもどこか不協和音のような、不気味な響きだった。

「誰かいるのか?」

声に出してみたが、返事はない。代わりに、歌声が一瞬止まり、すぐにまた始まった。今度は少し大きくなった気がした。俺は意を決して、音のする方向へ進んだ。廊下の突き当たりにある教室。そこから音が聞こえてくる。

教室のドアは閉まっていた。ガラス窓から中を覗こうとしたが、埃と汚れで何も見えない。手をかけてドアを開けようとした瞬間、背後でガタッと音がした。振り返ると、廊下の奥で何かが動いたような気がした。懐中電灯を向けても、何も見えない。でも、確かに何かがあった。心臓が喉まで跳ね上がるような感覚だった。

「落ち着け、気のせいだ」

そう自分に言い聞かせ、ドアノブを握った。冷たく、錆びた感触が手に伝わる。ゆっくりとドアを開けると、ギィィという音が夜の静寂を切り裂いた。教室の中は真っ暗で、懐中電灯の光が黒板や机を照らし出す。誰もいない。だが、歌声はまだ聞こえる。いや、もっと近くで聞こえる。

「……あ……遊ぼ……」

声が、すぐ近くで聞こえた。子供の声。だが、どこか不自然で、まるで機械のような、感情のない声だった。懐中電灯を振り回したが、誰もいない。なのに、声はどんどん近づいてくる。

「遊ぼうよ……一緒に……」

背後で、足音。子供の小さな足音が、ゆっくりと近づいてくる。振り返るのが怖かった。でも、動かなければもっと怖い気がした。意を決して振り返ると、そこには誰もいなかった。だが、足音はまだ聞こえる。教室の外、廊下のどこかから。いや、すぐ後ろから。

「やめろ! 誰だ!」

叫んだ瞬間、歌声がピタリと止まった。静寂が戻ったが、それは逆に恐怖を増幅させた。懐中電灯の光がチカチカと点滅し始めた。電池切れ? そんなはずはない、さっき新しい電池に入れたばかりだ。光が弱まる中、教室の隅に何かが見えた。黒板の前に、小さな人影。子供の大きさの、ぼんやりとした影。

「遊……ぼう……」

影が動いた。いや、動いたというより、瞬間的に近づいてきた。懐中電灯の光が完全に消え、暗闇が俺を飲み込んだ。次の瞬間、冷たい手が俺の腕をつかんだ。小さな、子供の手。だが、その力は異様に強く、まるで骨まで締め付けるようだった。

「遊ぼうよ……ずっと……」

俺は叫び声を上げ、腕を振りほどこうとしたが、動かない。体が金縛りにあったように固まった。その時、耳元で囁く声。複数の子供の声が、重なり合って響く。

「ここに……ずっといて……」

気がつくと、俺は宿の布団の中で目を覚ました。全身汗だくで、心臓がバクバクしていた。時計を見ると、朝の5時。夢だったのか? でも、腕に残る赤い手形のような痣が、夢ではなかったことを物語っていた。

その日、俺は予定を早めて町を離れた。廃校のことは誰にも話さなかった。話したところで、誰も信じないだろう。でも、夜になると、あの歌声が頭の中で響くことがある。子供たちの声が、俺を呼んでいるような気がして、眠れなくなる夜がある。

あの廃校には、もう二度と近づかない。だが、どこかで、あの子供たちがまだ俺を待っているような気がしてならない。

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