今から数十年前、東京都の外れ、かつて賑わった商店街の裏手に、ひっそりと佇む古いアパートがあった。地元では「影見荘」と呼ばれ、誰も近づかない場所だった。戦後の混乱期に建てられたその建物は、壁にひびが入り、窓ガラスは埃と蜘蛛の巣に覆われ、まるで時間が止まったかのように朽ち果てていた。噂では、かつてそこに住んでいた住人たちが次々と不可解な死を遂げ、夜な夜な奇妙な音や声が響くという。子供たちは「影見荘に入ったら二度と出られない」と囁き、大人たちはその名を口にするだけで顔を曇らせた。
私と友人たちは、大学に入ったばかりの若者だった。夏の夜、酒の勢いもあって、好奇心に駆られた私たちは「肝試し」と称して影見荘に足を踏み入れることにした。メンバーは私を含めて四人。リーダー格のKは怖いもの知らずで、いつも無鉄砲な行動で周りを引っ張る男だった。Yは怖がりだが、Kに逆らえず渋々ついてきた。Sは冷静で、怪談話には懐疑的だったが、どこか興味を隠せない様子だった。そして私、ただの大学生で、怖い話は嫌いではなかったが、実際に体験するなんて考えたこともなかった。
夜の11時を過ぎ、街灯の光も届かない路地裏にたどり着いた。影見荘は、昼間見るよりもずっと不気味だった。鉄錆びた門扉は半開きで、風もないのにキィキィと小さく揺れている。Kが「行くぞ!」と声を上げ、懐中電灯を手に門をくぐった。私たちは互いに肩を寄せ合い、足音を忍ばせて中へ進んだ。建物の中は、湿ったカビの臭いが鼻をつき、床は腐りかけた木板が軋む。懐中電灯の光が、剥がれかけた壁紙やひび割れた天井を照らし出すたびに、胸が締め付けられるような感覚がした。
一階の廊下を進むと、突き当たりに古い階段があった。Kが「二階に行ってみようぜ」と提案し、誰も反対できなかった。階段は一歩踏むごとに不気味な音を立て、まるで建物自体が私たちを拒んでいるようだった。二階に上がると、長い廊下が左右に伸び、両側にいくつもの部屋が並んでいた。どのドアも半開きで、暗闇の中から何かが覗いているような錯覚に襲われた。Sが「なんか…変な感じがするな」と呟いた瞬間、Yが小さな悲鳴を上げた。「何か動いた!あそこの部屋!」
Yが指さした部屋のドアは、ゆっくりと開いていくように見えた。Kが「ビビるなよ、風だろ」と笑いながら部屋に近づいたが、その声にはどこか震えが混じっていた。私も後ろからついていったが、心臓がバクバクと鳴り、足が重い。部屋の中は真っ暗で、懐中電灯の光が届く範囲に、古い畳と壊れた家具が散乱していた。Kが「ほら、何もねえじゃん」と強がって光を振り回すと、突然、部屋の奥から「カタッ」という音が響いた。まるで誰かが床を叩いたような、はっきりとした音だった。
「何!?」Yが叫び、私たちは一斉に後ずさった。Kだけが前に進み、懐中電灯を音のした方へ向けた。光の先には、誰もいない。ただ、古い鏡が壁に立てかけてあった。鏡の表面は曇り、ところどころひびが入っている。Kが「ただの鏡じゃん」と笑おうとした瞬間、鏡の中に何かが見えた。ぼんやりとした人影が、鏡の向こうで揺れている。Kの懐中電灯の光が揺れたわけでもないのに、影は不自然に動いていた。
「…お前、見えた?」Kの声が低く、震えていた。私は頷くことしかできなかった。Yはすでに泣きそうな顔で、Sは固まったまま鏡を見つめていた。「気のせいだろ、行こうぜ」とKが言ったが、その声にいつもの勢いはなかった。私たちが部屋を出ようとした瞬間、背後で再び「カタッ、カタッ」と音が響いた。今度は連続的で、まるで誰かがこちらに近づいてくるような足音だった。振り返ると、鏡の中の人影が一瞬、はっきりと見えた。白い着物を着た女の姿だった。顔は見えなかったが、長い髪が揺れ、まるでこちらを見つめているようだった。
「逃げろ!」Kが叫び、私たちは一斉に階段へ向かって走った。だが、階段を降りる途中、Yが足を滑らせて転んだ。「痛っ!待って!」と叫ぶYをSが引きずるようにして助け起こし、私たちは必死で一階へ向かった。背後からは、足音が追いかけてくる。カタカタカタカタ…。それは人間の足音とは思えないほど速く、不規則だった。やっとの思いで門扉を抜け、路地裏に出たとき、振り返ると影見荘の二階の窓から、ぼんやりとした人影がこちらを見下ろしていた。誰もが息を呑み、言葉を失った。
それから数日後、私たちはあの夜のことを口にしなかった。だが、Yだけが様子がおかしかった。夜な夜な悪夢にうなされ、「あの女が来る」と繰り返し呟くようになった。ある日、Yが突然大学に来なくなった。心配した私たちが彼のアパートを訪ねると、部屋は空っぽで、まるで誰かが急いで出て行ったようだった。机の上には、ただ一枚、メモが残されていた。「鏡の中の女が呼んでいる。もう逃げられない」と書かれていた。
それ以来、私は影見荘の近くには二度と近づいていない。Kは「あれは気のせいだった」と強がっているが、夜道を歩くとき、いつも背後を気にしている。Sはあの夜のことを話そうとしないが、時折、遠くを見つめる目が何かを恐れているように見える。そして私自身、鏡を見るたびに、あの夜の女の影が映るのではないかと、背筋が凍る思いがする。影見荘は今もそこにあり、ひっそりと次の訪問者を待っている。夜の闇に紛れ、囁きと足音が響く場所で。

