深夜の廃校に響く足音

実話風

2005年の夏、東京都の郊外にある小さな町。そこには、20年以上前に廃校となった古い小学校があった。校舎は老朽化し、窓ガラスは割れ、壁には苔が生え、まるで時間が止まったかのような雰囲気を漂わせていた。地元では、この廃校には奇妙な噂が絶えなかった。夜な夜な、誰もいないはずの校舎内で子どもの笑い声や足音が聞こえるというのだ。

私には、大学時代の友人であるタケシがいた。彼は心霊スポット巡りが趣味で、夏休みになると決まってどこかの廃墟に連れて行かれた。その年、タケシが目を輝かせて提案してきたのが、この廃校だった。「絶対ヤバいって!地元の掲示板でも話題になってるんだから!」彼の熱意に押され、半信半疑ながらも、私とタケシ、そしてもう一人の友人であるユミの3人で、廃校に肝試しに行くことになった。

その夜、8月の蒸し暑い夜だった。月明かりが薄く、空には雲が垂れ込めていた。私たちは懐中電灯とカメラだけを持ち、午後11時過ぎに廃校の敷地に足を踏み入れた。正門は錆びついた鉄格子で閉ざされていたが、脇のフェンスが壊れていて、簡単に入ることができた。校庭は雑草が生い茂り、かつての運動場の面影はほとんどなかった。校舎の入り口に立つと、ひんやりとした空気が漂い、背筋に冷たいものが走った。

「なんか、嫌な感じするね…」ユミが小さな声でつぶやいた。彼女は普段は明るい性格だが、このときばかりは顔が強張っていた。タケシは逆に興奮した様子で、「これだから廃墟は最高なんだよ!さ、行くぞ!」と率先して校舎の扉を押し開けた。扉は重たく、軋む音を立ててゆっくり開いた。中は真っ暗で、懐中電灯の光が埃っぽい空気を切り裂いた。

校舎の中は、想像以上に荒れ果てていた。廊下には落ち葉やゴミが散乱し、壁には落書きがびっしりと書かれていた。教室のドアは半分開いたままのものもあれば、完全に壊れているものもあった。タケシは先頭に立ち、懐中電灯を振りながら進んだ。「ほら、ほら!この雰囲気、最高じゃん!」彼の声が廊下に反響し、妙に大きく聞こえた。私はユミの手を握り、彼女の震えを感じながら後ろをついていった。

1階を一通り見て回った後、タケシが2階へ続く階段を見つけた。「上に行ってみようぜ。噂じゃ、2階の音楽室がヤバいらしいよ。」彼の言葉に、ユミが「やめようよ…なんか本当に嫌な予感がする」と訴えたが、タケシは笑って取り合わなかった。私も少し不安だったが、好奇心が勝り、結局3人で階段を登った。

2階の廊下は、1階よりもさらに静かだった。空気が重く、まるで何かに見られているような感覚がした。音楽室は廊下の突き当たりにあった。ドアには「音楽室」と書かれたプレートが斜めに傾いて掛かっていた。タケシがドアノブを掴み、勢いよく開けると、埃が舞い上がり、むせ返るような匂いが鼻をついた。部屋の中には古いピアノと、いくつかの壊れた机が放置されていた。窓は割れ、月明かりがぼんやりと室内を照らしていた。

「ここ、めっちゃ雰囲気あるな!」タケシがカメラを構え、フラッシュを焚いて写真を撮り始めた。私はユミと一緒に部屋の隅に立ち、なんとなく落ち着かない気分だった。すると、突然、ユミが私の腕を強く握った。「ねえ…今、なんか聞こえなかった?」彼女の声は震えていた。私は耳を澄ませたが、最初は何も聞こえなかった。しかし、数秒後、遠くから「タッ、タッ、タッ」という小さな足音が聞こえてきた。まるで、子どもが廊下を走るような音だった。

「タケシ、ちょっと静かにして!」私が声を潜めて言うと、彼もカメラを下ろし、耳を澄ませた。足音は次第に近づいてくるようだった。タッ、タッ、タッ…。音は音楽室のすぐ外で止まった。私たちの視線は一斉にドアの方へ向いた。そこには誰もいなかった。だが、静寂の中で、ドアの隙間から何かが見ているような気がした。ユミが小さな悲鳴を上げ、私の腕をさらに強く握った。

「…冗談だろ?」タケシが呟き、懐中電灯をドアに向けた。光が廊下を照らすと、そこには確かに何もなかった。しかし、次の瞬間、音楽室の奥に置かれたピアノから、突然「ドーン」と低い音が響いた。私たちは飛び上がるように驚き、振り返った。ピアノの鍵盤には誰も触れていない。なのに、鍵盤がわずかに揺れているように見えた。

「もう帰ろう!お願い!」ユミが泣きそうな声で訴えた。私も心臓がバクバクしていたが、タケシはまだ興奮しているようだった。「いや、待てよ!これは貴重な体験だぞ!もうちょっと調べよう!」彼はそう言うと、ピアノに近づき、鍵盤を触ってみた。すると、また「ドーン」と音が鳴り、今度は連続して「ドン、ドン、ドン」と不規則なリズムで鍵盤が鳴り始めた。タケシは慌てて手を引っ込め、顔が青ざめた。

そのとき、廊下から再び足音が聞こえてきた。今度は複数だ。タッ、タッ、タッ…。まるで何人もの子どもが走り回っているような音だった。ユミはもうパニック状態で、「出よう!早く!」と叫びながらドアに向かった。私も彼女を追い、出口に向かおうとしたが、タケシが「待て!カメラ!」と叫び、落としたカメラを拾おうとした。その瞬間、音楽室のドアがバタンと勢いよく閉まった。

「うわっ!」私たちは一斉に悲鳴を上げた。ドアノブを回そうとしたが、びくともしない。まるで誰かが外から押さえているようだった。懐中電灯の光で照らすと、ドアの小窓から、黒い影がチラチラと動いているのが見えた。ユミは泣き出し、私は恐怖で足がすくんだ。タケシだけが、「落ち着け!落ち着けよ!」と叫びながらドアを叩いたが、影は消えるどころか、ますますはっきりと見えるようになった。

影は子どものような輪郭だった。だが、顔は見えず、ただ黒い塊が揺れているようだった。影は小窓に近づき、ガラスに何か白いものが押し付けられた。それは、子どもの手形だった。だが、その手形は異様に小さく、指が異常に長い。まるで人間のものではないような形だった。

「開けて!開けてよ!」ユミが叫びながらドアを叩いた。すると、突然、ドアがガタガタと激しく揺れ始めた。同時に、部屋の中のピアノが再び鳴り出し、「ドン、ドン、ドン」と狂ったように音を立てた。私はもう恐怖で頭が真っ白になり、ただユミを抱きしめることしかできなかった。タケシは懐中電灯を振り回し、「出てけ!出てけよ!」と叫んだが、足音もピアノの音も止まなかった。

どれくらい時間が経ったのかわからない。突然、すべての音がピタリと止んだ。ドアの揺れも、ピアノの音も、足音も、すべてが消え、まるで何もなかったかのような静寂が訪れた。私たちは息を殺し、動けずにいた。タケシが恐る恐るドアノブに手を伸ばすと、今度はスムーズに開いた。廊下には何もなく、ただ冷たい空気が漂っていた。

私たちは一目散に校舎を飛び出し、フェンスをくぐって車に戻った。車に乗り込むと、ユミは泣きじゃくり、タケシは無言でハンドルを握った。私は後部座席で震えながら、さっきの出来事を思い返していた。あの手形、あの足音、あのピアノの音…。すべてが現実とは思えなかった。

後日、タケシが撮った写真を確認したが、音楽室の写真はすべて真っ黒だった。まるで光が吸い込まれたかのように、何も写っていなかった。ユミはその後、廃校の話を一切口にしなくなり、タケシも心霊スポット巡りをやめた。私は今でも、あの夜のことを思い出すたびに、背筋が凍るような感覚に襲われる。あの廃校は今もそこにあり、夜な夜な足音が響いているのかもしれない。

あの校舎には、何かがあった。いや、何かがまだいる。私はそう確信している。

タイトルとURLをコピーしました