秋田の山奥に住む私には、忘れられない恐怖体験がある。それは、去年の夏の終わり、8月の終わり頃の話だ。
私は地元の小さな運送会社で働いていて、夜遅くに山間部の集落へ荷物を届けることがよくあった。その日も、いつものように軽トラックに荷物を積み込み、県北の山深い集落へと向かった。時刻はすでに22時を過ぎていた。空は厚い雲に覆われ、月明かりも星も見えない真っ暗な夜だった。山道は狭く、カーブが多く、対向車が来ないことを祈りながら運転するのが常だった。
目的地の集落は、携帯の電波も届かないような場所にある。古い家屋が点在し、昼間でもどこか寂れた雰囲気があるが、夜になるとまるで別の世界のようだ。道の両側には鬱蒼とした杉の木々が立ち並び、ヘッドライトの光が木々の間を切り裂くように進む。ラジオは雑音ばかりで、音楽も途切れがちだった。私はいつもそんな夜道を、軽い緊張感とともに走っていた。
その夜、いつもと変わらないはずの道を走っていると、突然、遠くの闇の中に小さな光が見えた。最初は対向車のヘッドライトかと思ったが、光の動きが妙だった。左右に揺れながら、まるで浮いているように近づいてくる。対向車ならもっと速く近づいてくるはずだし、こんな時間にこの道を走る車はほとんどない。不思議に思いながらも、私はスピードを緩め、光が何なのか確認しようとした。
光は徐々に大きくなり、赤みを帯びたぼんやりとした灯火のようなものだとわかった。それはまるで提灯のような形をしていたが、誰かが持っている様子はない。宙に浮かび、ゆらゆらと揺れながら私の車に向かってくるのだ。気味が悪くなり、私はアクセルを踏んでその場を離れようとした。しかし、どれだけスピードを上げても、灯火は一定の距離を保ちながら追いかけてくる。バックミラーを見ると、赤い光が後ろで揺れているのが見えた。
心臓がドキドキと高鳴り、冷や汗が背中を伝う。私は必死でハンドルを握り、カーブを曲がりながらもその光から逃れようとした。だが、道はどこまでも続き、集落の明かりはまだ遠い。ふと、助手席に置いた荷物がガタンと音を立てた。驚いてそちらを見ると、荷物は特に動いた様子もない。だが、その瞬間、車内の空気が急に重くなった。まるで誰かが後部座席に座ったような、息苦しい圧迫感が襲ってきた。
「何だ、これは…?」
思わず声に出してしまったが、答えはない。代わりに、バックミラーに映る赤い灯火が、急に近づいてきた。まるで車に追いつくように、異様な速さで迫ってくるのだ。私はパニックになりながらも、アクセルを床まで踏み込んだ。エンジンが唸り、車はガタガタと揺れながら山道を突き進む。だが、どれだけ走っても、灯火はすぐ後ろにいる。いや、もっと近い。まるで車内にまで入り込んでくるような錯覚さえ覚えた。
その時、突然、車のラジオがけたたましく鳴り出した。雑音の中から、聞き取れない声のようなものが流れ、断続的に繰り返される。「…こ…こ…来る…な…」。ぞっとした。ラジオの電源はすでに切っていたはずだ。慌ててラジオのボタンを押したが、音は止まらない。それどころか、声は次第に明瞭になり、「来るな…来るな…」と繰り返す。声は低く、まるで喉の奥から絞り出すような、怨念に満ちたものだった。
私は叫び声を上げそうになったが、必死で耐えた。こんな山奥で、誰かに助けを求めても無駄だ。とにかく集落までたどり着かなければ。だが、次の瞬間、車が急にガクンと揺れ、エンジンが停止した。ヘッドライトが消え、真っ暗な闇が車を包み込む。バックミラーを見ると、赤い灯火がすぐ後ろに浮かんでいる。いや、車内にまで入り込んでいるように見えた。赤い光が私の顔を照らし、まるで何かに見つめられているような恐怖が全身を駆け巡った。
「やめろ! 出て行け!」
叫んだ瞬間、車内が一瞬、異様な静寂に包まれた。だが、それはほんの一瞬だった。次の瞬間、車全体が揺れ、ガラスがガタガタと鳴り始めた。赤い灯火が車内を漂い、まるで生き物のように私の周りを旋回する。私はシートにしがみつき、目を閉じてただ祈った。どれくらいそうしていたのかわからない。やがて、揺れが収まり、車内が再び静かになった。恐る恐る目を開けると、赤い灯火は消えていた。ラジオも、いつしか沈黙していた。
震える手でエンジンをかけ直すと、幸いにも車は動き出した。私はそのまま集落まで一気に走り、荷物を届けた後、すぐに町へ戻った。後で聞いた話だが、その山道は昔、異界への入り口とされる場所だったという。戦前、村人が山で神隠しに遭い、戻ってきた者はみな正気を失っていたそうだ。そして、夜道に赤い灯火を見た者は、二度とその道を通らないと決めるという。
あの夜のことを思い出すたび、今でも背筋が凍る。私はもう二度と、あの山道を通ることはないだろう。だが、時折、夜道を走っていると、バックミラーに赤い光がちらつく気がして、思わず目を逸らす。もしかしたら、あの灯火はまだ私を追っているのかもしれない。
(了)