数十年前、鳥取県の境港に住む少年、健太は、夏の終わりを惜しむように、毎日のように海辺を歩いていた。
その日も、いつものように浜辺を歩いていた。夕暮れ時、潮の香りが鼻をくすぐり、波の音が心地よく耳に響く。だが、いつもと違うのは、遠くの海がやけに静かで、まるで時間が止まったような感覚に襲われたことだ。空はどんよりと曇り、霧がゆっくりと港を覆い始めていた。
「こんな霧、初めてだな……」
健太は少し不安を感じながらも、いつもの散歩道を進んだ。港の端にある古い灯台を目指していたのだ。その灯台は、昔から地元の漁師たちの間で不思議な噂が絶えない場所だった。「あの灯台の光を見た者は、異世界に連れていかれる」とか、「霧の夜に灯台の周りで奇妙な声が聞こえる」といった話だ。健太はそんな噂を半信半疑で聞いていたが、どこかで心の奥底にその話が引っかかっていた。
灯台に近づくにつれ、霧はますます濃くなり、視界は数メートル先も見えないほどになった。足元が濡れた石畳に変わり、波の音すら遠くに聞こえる。まるで世界から切り離されたような感覚だった。健太は少し後悔し始めたが、今さら引き返すのも悔しく、意を決して灯台の入り口までたどり着いた。
灯台の扉は古びて錆びついていたが、なぜか少し開いていた。まるで誰かが先に入ったかのように。健太は好奇心に負け、懐中電灯を手に中へ踏み込んだ。内部は湿った空気が漂い、カビ臭い匂いが鼻をついた。螺旋階段が上へ続く暗闇に、懐中電灯の光が細く伸びる。階段を登るたびに、軋む音が不気味に響いた。
「誰もいないよな……?」
健太は自分を励ますように呟いたが、声は虚しく反響するだけだった。頂上にたどり着くと、そこには古いランプが置かれていた。だが、驚くべきことに、そのランプは微かに点滅していた。電気が通っていないはずの灯台で、だ。健太の背筋に冷たいものが走った。すると、どこからともなく囁き声が聞こえてきた。
「ここに……いる……」
声は低く、まるで複数の人が同時に話しているように重なり合っていた。健太は慌てて周囲を見回したが、誰もいない。懐中電灯の光を振り回しても、霧が反射して何も見えない。心臓がバクバクと鳴り、足が震え始めた。その時、ランプの光が突然強くなり、部屋全体が不気味な青白い光に包まれた。
「うわっ!」
健太は思わず目を覆った。次の瞬間、耳元でハッキリと声がした。
「お前も……連れて行く……」
恐怖で動けなくなった健太の目の前で、霧が渦を巻き始めた。渦の中から、ぼんやりと人影のようなものが現れる。それは人間の形をしていたが、顔がなかった。いや、顔があるはずの場所が、真っ黒な穴のように見えた。健太は叫び声を上げ、階段を駆け下りようとしたが、足がもつれて転びそうになった。
「逃げろ! 逃げろ!」
心の中で叫びながら、なんとか灯台の外に飛び出した。だが、霧はさらに濃くなり、まるで生き物のように健太を包み込む。走っても走っても、港の風景は見えず、ただ霧と海の音だけが追いかけてくる。どれだけ走ったか分からない。息が切れ、膝がガクガクと震える中、健太はふと気づいた。足元の地面が、砂浜ではなく、冷たく滑らかな石のような感触に変わっていることを。
「ここ……どこだ?」
辺りを見回すと、霧の向こうにぼんやりと建物が見えた。それは港の古い倉庫や家とは全く違う、奇妙な形をした石造りの建物だった。屋根はなく、壁には不気味な模様が刻まれている。まるで古代の遺跡のようだったが、健太はそんなものが境港に存在しないことを知っていた。
建物の中から、再びあの囁き声が聞こえてきた。今度はもっと近く、もっとハッキリと。
「ようこそ……我々の世界へ……」
健太は恐怖で凍りつき、動けなかった。すると、建物の中から無数の影が這い出てきた。顔のない影たちは、ゆっくりと、しかし確実に健太に近づいてくる。その手には、まるで霧そのもののような白い糸が絡まり、健太の体に絡みつき始めた。
「やめろ! 離せ!」
健太は必死に抵抗したが、糸はまるで意思を持っているかのように彼を縛り上げる。影たちの囁きは笑い声に変わり、甲高い音が頭の中で響き渡った。意識が遠のき、健太は自分がどこにいるのか、なぜこんなことになったのか、考える余裕すらなくなっていった。
――どれくらい時間が経ったのか。健太が目を覚ますと、彼は港の浜辺に倒れていた。霧は晴れ、遠くで波の音が聞こえる。懐中電灯は壊れ、服は海水でびしょ濡れだった。だが、太の記憶には、あの奇妙な建物や顔のない影たちのことが、が鮮明に残っていた。
「夢……だったのか?」と」
健太は呟いたが、しかし、彼の腕には、には白い糸のような痕跡がうっすらと残っていた。まるで、あの糸が彼を縛っていた証拠のように。
それ以来、健太は二度と霧の夜に海辺を歩かなかった。だが、時折、静かな夜に、あの囁き声が耳元で聞こえることがあった。低く、く、まるで彼を誘うように。「また……来い……」と」
地元の老人たちは、健太の話を聞くと、顔を青ざめてこう言った。「それは、霧の異界の入り口だ。お前は、は運良く戻ってこれたが、だが、そいつらはまだお前を狙ってるぞ……」と」
健太はその後、普通の生活を送ろうとしたが、霧が立つ夜はいつも家に閉じこもり、カーテンを閉めた。だが、時折、夜の海から聞こえる波の音に混じって、あの囁き声が聞こえることは、決して終わらなかった。
今でも、境港の霧の夜には、あの灯台の周りで奇妙な光が目撃されるという。そしして、霧の中を歩く者を、異世界へと誘う囁きが響く。地元の人々は、決してその光に近づかない。なぜなら、なら、戻ってこれなかった者たちの物語が、今もなお語り継がれているからだ。