深夜の峠に響く足音

実話風

数年前の夏、俺は大学の仲間たちと長野の山奥にある古い別荘で一週間を過ごす計画を立てた。そこは、友人の親戚が所有する古びた木造の家で、普段は誰も使わない。山に囲まれ、近くに人家もなく、夜になると星空が広がる静かな場所だった。だが、その静けさが、俺たちの恐怖の始まりだった。

初日の夜、俺たちは別荘の広間に集まり、酒を飲みながら他愛もない話をしていた。窓の外は真っ暗で、時折、風が木々を揺らす音が聞こえるだけ。時計が深夜を回った頃、誰かが「怖い話でもしようぜ」と言い出した。最初は軽いノリだった。都市伝説や、よくある怪談を笑いながら語り合っていた。だが、ひとりが「この辺の山には、昔、行方不明になった人がたくさんいるらしい」と口にした瞬間、場の空気が少し変わった。

「ほんと? 何かヤバい話あんの?」と別の友人が食いついた。そいつは地元の出身で、子供の頃に聞いた話をぽつぽつと話し始めた。「この近くの峠に、昔、事故で死んだ女の幽霊が出るって話がある。夜中に車で通ると、道の真ん中に立ってるんだって。で、目を合わせると…」彼はそこで言葉を切って、ニヤリと笑った。「まあ、ただの噂だけどな」。俺たちは笑って流したが、その話が頭の片隅に残った。

その夜、俺はなかなか寝つけなかった。別荘の二階にある部屋の窓から見える山の稜線が、月明かりにぼんやりと浮かんでいた。静かすぎる環境に、耳が妙に敏感になっている気がした。すると、遠くから何か音が聞こえてきた。カツ、カツ、という硬い足音。最初は動物かと思ったが、よく耳を澄ますと、まるで誰かが石畳を歩くような、リズミカルな音だった。だが、この別荘の周りは土と草ばかりで、石畳なんてない。音はだんだん近づいてくるようだった。

「気のせいだろ」と自分に言い聞かせ、布団をかぶった。だが、音は止まなかった。カツ、カツ、カツ。規則的で、どこか不自然なリズム。窓の外を見ようか迷ったが、怖くて動けなかった。結局、音はしばらく続いた後、急にピタリと止んだ。朝になって、仲間たちにその話をすると、「お前、怖い話のせいでビビっただけだろ」と笑われた。確かに、俺もそう思いたかった。

次の夜、俺たちはまた遅くまで起きていた。すると、またあの足音が聞こえてきた。今度は俺だけじゃなく、別の友人も気づいた。「おい、なんか聞こえない?」そいつが青い顔で言った。カツ、カツ、カツ。音は前夜よりもはっきりしていて、まるで家の周りをぐるりと回っているようだった。誰かが「外、見てこいよ」と冗談めかして言ったが、誰も動かなかった。俺たちは黙り込み、ただその音に耳を傾けた。音はしばらく続いた後、また突然止まった。

三日目の夜、俺たちはもう怖い話をする気にはなれなかった。だが、深夜になると、またあの足音が始まった。今度は明らかに家のすぐ近くで聞こえる。カツ、カツ、カツ。まるで誰かが玄関の周りを歩き回っているようだった。俺たちは顔を見合わせ、誰も口を開かなかった。すると、突然、ドン!という大きな音が玄関の方から響いた。まるで誰かがドアを叩いたような音。俺たちは凍りついた。「誰かいるのか?」と囁くように言った友人の声が震えていた。

意を決して、俺ともう一人が懐中電灯を持って玄関に向かった。ドアを開ける瞬間、心臓が喉から飛び出しそうだった。だが、外には誰もいなかった。ただ、玄関の前の地面に、妙な跡が残っていた。靴の跡のようだったが、妙に小さく、まるで子供のものみたいだった。でも、この山奥に子供なんているはずがない。俺たちは急いでドアを閉め、鍵をかけた。その夜、誰も寝られなかった。

翌日、俺たちは地元の古老に話を聞きに行くことにした。別荘から車で30分ほどの集落に住むおじいさんが、この辺の歴史に詳しいと聞いたからだ。おじいさんは、俺たちの話を聞くと、しばらく黙り込んだ後、こう言った。「その峠には、昔、悲しい話があった。戦時中、疎開してきた子供たちがいたんだが、ある夜、ひとりの女の子が行方不明になった。山で迷ったんだろう、って話だったが、誰も見つけられなかった。それ以来、夜になると、峠で足音が聞こえるって噂がある。まるで、誰かを探してるみたいに…」

おじいさんの話に、俺たちは背筋が冷たくなった。あの足音は、ただの気のせいじゃなかったのかもしれない。俺たちは予定を切り上げて、翌日には別荘を後にした。帰り道、峠を通る時、誰も口をきかなかった。カーブの向こうに何か立っているんじゃないかと、みんなが同じことを考えていたと思う。

それから数年経った今でも、あの足音が耳に残っている。カツ、カツ、カツ。リズミカルで、どこか寂しげな音。あの別荘には二度と行っていないし、行こうとも思わない。だが、時折、夜中に目が覚めると、遠くからあの音が聞こえてくる気がする。まるで、俺を呼ぶように。

長野の山奥には、まだ知られざる物語が眠っているのかもしれない。だが、俺はもう、それに触れたいとは思わない。ただ、静かな夜に耳を澄ますと、どこかでカツ、カツ、という音が聞こえてくる気がして、背筋がゾッとするんだ。

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