古井戸の呪縛

ホラー

今から20年ほど前、埼玉県の郊外にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、田んぼと雑木林に囲まれた静かな場所で、都会の喧騒とは無縁の時間が流れていた。集落の中心には、古びた神社があり、その裏手には誰も近寄らない古井戸があった。井戸の周りは苔むし、朽ちかけた木の蓋が不気味な雰囲気を漂わせていた。村の古老たちは、子供たちに「絶対に井戸に近づくな」と厳しく言い聞かせていたが、その理由を語る者は誰もいなかった。

私、仮にユウキと名乗ろう。当時、私は高校生で、夏休みを利用して母の実家であるこの集落に遊びに来ていた。母は昔、この集落で育ったが、都会に出てからはほとんど帰郷することはなかった。私にとっては、祖父母の家とその周辺を探索することは、退屈な夏を過ごすためのちょっとした冒険だった。

ある蒸し暑い午後、従兄弟のタカシと一緒に神社裏の雑木林を歩いていた。タカシは私より二歳年上で、集落のことをよく知っている自称「地元のガイド」だった。彼はいつも少し調子に乗った口調で、集落の噂話を披露するのが好きだった。その日も、いつものように他愛もない話をしながら歩いていると、ふとタカシが足を止めた。

「お前、あの井戸見たことある?」

彼が指差した先に、木々の隙間から古井戸が見えた。陽光が木漏れ日となって井戸の周りを照らし、どこか不自然な静けさが漂っていた。私は首を振った。

「いや、初めて見た。なんか不気味だな。なんであんなとこにあるんだ?」

タカシはニヤリと笑い、声を潜めて言った。

「実はな、あの井戸には呪いがかかってるって噂があるんだ。昔、村の誰かが井戸に物を投げ込んだら、夜中に変な声が聞こえてきて、そいつは次の日には行方不明になったってさ。」

私は半信半疑だったが、どこか心の奥でゾクッとする感覚があった。タカシはさらに話を続けた。

「でさ、試してみね?何か投げ込んでみて、ほんとに呪いがあるか確かめようぜ。」

私は笑いながら断ったが、タカシは本気だった。彼はポケットから小さな石を取り出し、井戸の縁に近づいた。私は「やめとけよ!」と叫んだが、タカシは聞く耳を持たず、石を井戸の中に投げ込んだ。

ポチャン。

水面に石が落ちる音が、静かな林に響いた。その瞬間、なぜか鳥のさえずりがピタリと止まり、風すらも止まったような気がした。タカシは笑っていたが、私の背筋には冷たいものが走った。

「ほら、なんともねえじゃん!」タカシは得意げに言ったが、私は早くその場を離れたかった。急いで祖父母の家に戻る途中、タカシはまだ冗談を言っていたが、私はどこか落ち着かない気分だった。

その夜、異変が起きた。祖父母の家は古い木造の一軒家で、夜になると畳の軋む音や風の音が聞こえるのが普通だった。しかし、その夜は違った。深夜、ふと目が覚めると、どこからか低い呻き声のような音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、音は次第にハッキリと耳に届くようになった。

「うぅ……うぅ……」

声は家の外から聞こえてくるようだった。私は布団の中で身を縮め、耳を塞いだが、声は止まなかった。恐怖で心臓がバクバクしていたが、好奇心が勝ってしまい、そっと窓の隙間から外を覗いた。そこには、誰もいなかった。ただ、遠くの神社の方向に、ぼんやりとした白い影のようなものが動いているのが見えた。私は慌てて布団に潜り込み、朝まで一睡もできなかった。

翌朝、タカシに昨夜のことを話したが、彼は笑いものだった。「お前、ビビりすぎだろ!そんなの気のせいだって!」しかし、彼の目にはどこか落ち着かない色が浮かんでいた。その日、タカシはいつもより静かで、どこか上の空だった。

数日後、事態は急変した。タカシが突然、高熱を出して寝込んでしまったのだ。医者に診てもらっても原因はわからず、ただ「疲れが溜まっているのかもしれない」と曖昧な診断をされただけだった。しかし、タカシの様子はおかしかった。夜中になると、うわ言で「ごめん…ごめん…」と繰り返し、時折、恐怖に歪んだ顔で虚空を見つめることがあった。

私は怖くなった。あの井戸に石を投げ込んだことが関係しているのではないか。祖母に井戸のことを尋ねると、彼女は顔を曇らせ、こう言った。

「あの井戸には、昔、村の罪人が封じられたって話がある。詳しいことは誰も知らないけど、井戸を穢すと、その呪いが解けてしまうんだよ…」

祖母の話によると、井戸はただの水源ではなく、村の禍々しい歴史を封じるためのものだった。かつて、村で起きた惨劇に関わった者が、怨霊となって井戸に封じられたというのだ。その話を聞いて、私はタカシがしたことの重大さに震えた。

タカシの容態が悪化する中、私は決心した。井戸の呪いを解くため、神社に相談に行くことにした。神社の宮司は厳しい顔で私の話を聞き、こう告げた。

「井戸の呪いを静めるには、穢れを清める儀式が必要だ。だが、その儀式には代償が伴う。心の弱い者は、呪いに飲み込まれることもある。」

私はタカシを救うため、儀式を行うことを願った。宮司は私に、井戸の前で特定の祝詞を唱え、供物を捧げるよう指示した。その夜、懐中電灯を手に、私は一人で井戸に向かった。月明かりがなく、林の中は不気味なほど静かだった。井戸の前に立つと、冷たい空気が肌を刺した。

祝詞を唱え始めると、突然、井戸の中から水音が聞こえた。ポチャン、ポチャン…。誰かが這うような音が続き、私は恐怖で声が震えた。だが、タカシの苦しむ顔を思い出し、必死に祝詞を唱え続けた。その時、井戸の縁から、長い黒髪に覆われた顔がゆっくりと這い出てきた。その目は空洞のようで、私をじっと見つめていた。

「お前も…穢した…」

低く、怨念に満ちた声が耳元で響き、私は悲鳴を上げた。だが、宮司の言葉を信じ、最後まで祝詞を唱えきった。すると、突然、井戸から黒い霧のようなものが立ち上り、それが夜空に消えると、井戸は再び静かになった。

翌朝、タカシの熱は下がり、まるで何もなかったかのように元気を取り戻していた。彼はあの夜のことを何も覚えておらず、私もまた何も言わなかった。集落を去る日、祖母がポツリと言った。

「もう二度と、あの井戸には近づくなよ。」」

私は頷き、が、心の奥には、あの怨霊の目が焼き付いていた。あの井戸は今も集落にあり、朽ちた蓋のまま、静かに佇んでいるという。だが、誰も近づかず、その呪いの真実を知るる者もいない。いや、知ってしまった私は、時折、夜中にあの低い呻き声を思い出し、背筋が凍る思いをするのだ。

…。

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