今から数年前、北海道の奥深くにある小さな村で、私は大学の民俗学の研究のために訪れていた。村は雪深い森に囲まれ、冬になると外界との連絡がほぼ途絶える場所だった。地元の人々は親切だったが、どこかよそ者に対する警戒心を隠しきれていなかった。特に、村の北にある「禁足の森」と呼ばれる場所については、誰もが口を閉ざした。
私を泊めてくれた老夫婦の家で、ある晩、囲炉裏を囲みながら話を聞いた。老婆は、かつてその森で「何か」が起こり、村に災いをもたらしたと囁いた。「あの森には近づいちゃいけない。呪いが眠ってるんだよ」と、彼女の目は恐怖に揺れていた。老夫は黙って頷くだけだったが、その夜、私は奇妙な夢を見た。雪に覆われた森の中で、誰かが私の名前を呼んでいる。声は低く、まるで地の底から響くようだった。
翌日、好奇心に抗えず、私は禁足の森へと足を踏み入れた。研究者としての使命感と、若さゆえの無鉄砲さが私を突き動かしたのだ。森は不気味なほど静かで、雪が音を吸収するせいか、足音さえも遠くに消えるようだった。しばらく進むと、古い祠を見つけた。苔むした石の祠は、風雪に耐えた年月を感じさせたが、その周囲には不自然なほど雪が積もっていなかった。まるで何かがそこを守っているかのように。
祠の前に立つと、突然、背筋に冷たいものが走った。誰かに見られている気がしたのだ。振り返っても誰もいない。だが、木々の間からかすかな囁きが聞こえてくる。「帰れ…帰れ…」と。心臓が早鐘を打ち、私は慌ててその場を離れた。しかし、森の出口が見つからない。まるで森自体が私を飲み込もうとしているかのように、道がぐるぐるとループしていた。
どれだけ歩いただろう。凍える体を引きずりながら、ようやく森の外に出たとき、村の若者が私を見つけて駆け寄ってきた。「お前、禁足の森に入ったのか!?」彼の顔は真っ青だった。「何も持って帰ってないよな? 何か持って帰ると、呪いが…」私は何も持っていないと答えたが、彼の目には信じられない恐怖が宿っていた。
その夜から、奇妙なことが起こり始めた。私の部屋の窓に、夜な夜な小さな手形がつくようになった。最初は子供のいたずらだと思ったが、窓は二階にあり、梯子を使わなければ届かない高さだった。手形は凍りついたように冷たく、拭いても翌日にはまた現れる。村の人々に相談したが、誰もが顔を曇らせ、「森の呪いだ」と言うだけだった。
数日後、老夫婦の家で異変が起きた。老婆が夜中に叫び声を上げ、気を失ったのだ。彼女が目を覚ましたとき、震える声でこう言った。「あの子が…あの子が私の夢に出てきた。あの森で死んだ子が、私を呼んでる…」彼女の話では、数十年前、村の少女が森で行方不明になり、その後、祠の近くで遺体となって発見されたという。村人たちは少女の死を「神の怒り」と恐れ、森を禁足地としたのだ。
私は恐怖に耐えきれず、村を出ることを決めた。だが、最後の夜、事態はさらに悪化した。部屋に閉じこもっていた私の耳に、ドアを引っかく音が響いた。最初は風の音かと思ったが、音は次第に激しくなり、まるで誰かが爪でドアを削るようだった。「開けろ…開けろ…」という囁き声が聞こえ、私は布団をかぶって震えた。声は少女のものだった。ドアの隙間から、凍てついた小さな手が這うように伸びてくるのが見えた瞬間、私は気を失った。
翌朝、目覚めたとき、部屋は静かだった。だが、ドアには無数の引っかき傷が刻まれ、床には雪が薄く積もっていた。私は荷物をまとめ、村を後にした。二度と戻らないと誓いながら。
それから数年が経った今でも、あの森のことは忘れられない。時折、夢の中で少女の声が聞こえる。「なぜ私を置いていったの?」と。彼女の顔は見えないが、その声には深い怨念が込められている。そして、最近気づいたことがある。私の家の窓に、時折、小さな手形が現れるのだ。拭いても、翌日にはまた現れる。まるで、彼女がまだ私を追っているかのように。
あの森で、私は何かを持って帰ってしまったのかもしれない。祠の前で感じた視線、囁き声、そして少女の呪い。それは今も私のそばにあり、決して離れることはないのだろう。