それは、今から20年ほど前の夏、青森県の山深い集落での出来事だった。
その集落は、津軽の奥地にひっそりと佇む、数十軒ほどの小さな村だった。村の外れには「黒沼」と呼ばれる、底の見えない沼が広がっていた。沼の周囲は鬱蒼とした杉林に囲まれ、昼間でも薄暗く、村人たちは近づくことを避けていた。なぜなら、黒沼には古くから伝わる不気味な言い伝えがあったからだ。
「黒沼に近づくと、呪われる。沼の底に棲むモノが、魂を奪う」
村の古老たちはそう語り、子供たちには決して近づかないよう厳しく言い聞かせていた。だが、若い世代にはそんな話はただの迷信にしか思えなかった。少なくとも、私の友人、健太にはそうだった。
健太は都会からこの村に引っ越してきたばかりの高校生だった。明るくて好奇心旺盛な性格で、村の閉鎖的な雰囲気に馴染めず、すぐに私と意気投合した。私もまた、村の外の世界に憧れる17歳だった。夏休みのある日、健太はいつものように私の家にやってきて、目を輝かせながら言った。
「お前、黒沼って知ってる?なんかヤバい場所らしいじゃん。行ってみねえ?」
私は一瞬、背筋が冷えた。子供の頃から聞かされていた黒沼の話が脳裏をよぎった。でも、健太の無邪気な笑顔を見ていると、断るのがバカらしく思えた。迷信なんて信じない、現代っ子の自分が怖気づくなんてかっこ悪い。そう思って、私は渋々うなずいた。
その日の午後、健太と私は自転車を漕いで黒沼に向かった。村の外れに近づくにつれ、空気が重くなり、蝉の声さえ遠のいていくようだった。沼のほとりに着いたとき、太陽はまだ高かったが、杉林の影が水面に不気味な模様を描いていた。沼の水は名前の通り真っ黒で、まるで光を吸い込むように静かだった。
「すげえ、めっちゃ不気味じゃん!」健太は興奮したように笑ったが、私はどこか胸騒ぎがしていた。沼の周囲には古びた石碑がいくつか立っていて、苔むした表面には読めない文字が刻まれていた。健太は石碑に近づき、興味津々で触れようとした。
「やめなよ、なんかヤバい気がするって……」私の声は震えていた。
「何、ビビってんの?ただの石だろ!」健太は笑いながら石碑を叩いた。その瞬間、どこからともなく低い唸り声のような音が聞こえた。風もないのに、沼の水面がわずかに揺れた気がした。私は思わず後ずさりしたが、健太は気づいていない様子で、沼の縁にしゃがみ込んで水面を覗き込んだ。
「なあ、なんか変な影が見えるぞ……」
健太の声が急に小さくなった。私は彼の肩をつかんで引き戻そうとしたが、そのとき、沼の水面が突然波立ち、黒い影がゆっくりと浮かび上がってきた。それは人の形をしていたが、顔はなく、ただ黒い霧のようなものが蠢いているだけだった。私は悲鳴を上げ、健太の手を引いてその場から逃げ出した。
家に帰り着いたとき、私たちは二人とも震えていた。健太は笑って「ビビりすぎだろ!」と言ったが、その目はどこか怯えていた。その夜、私は悪夢を見た。黒沼の底から無数の手が伸びてきて、私の足を掴む夢だった。目が覚めたとき、足首に冷たい感触が残っている気がして、布団の中で縮こまった。
それから数日後、健太の様子がおかしくなった。いつも明るかった彼が、急に口数が少なくなり、目に見えない何かを追うようにキョロキョロと周囲を見回すようになった。夜になると、彼の家から奇妙な声が聞こえると近所で噂になった。叫び声とも呻き声ともつかない、まるで人が人でなくなったような声だった。
ある晩、私は勇気を振り絞って健太の家を訪ねた。彼の両親は不在で、家の中は異様に静かだった。健太は自分の部屋に閉じこもっていて、ドア越しに話しかけても返事がない。だが、ドアの隙間から漏れる彼の声は、まるで誰かと話しているようだった。でも、部屋には彼一人しかいないはずだ。
「健太、大丈夫か?出てこいよ!」私はドアを叩いた。
すると、ドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは健太だったが、どこか別人のようだった。目は血走り、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。「お前も見たろ?あの沼の底にいるやつ……あいつ、俺を呼んでるんだ……」彼の声は低く、まるで喉の奥から絞り出すようだった。
私は恐怖で足がすくんだ。健太の手には、黒沼のほとりで見た石碑と同じ模様が、まるで火傷のように刻まれていた。「お前も行けよ、沼に……あいつが待ってる……」彼が一歩近づいてきた瞬間、私は我に返り、家を飛び出した。
翌日、健太は行方不明になった。村人たちが総出で探したが、彼の姿はどこにもなかった。黒沼のほとりには、彼の靴だけがぽつんと残されていた。村の古老たちは「やっぱり黒沼の呪いだ」と囁き合い、沼の周囲に新たな石碑を立てて封印の儀式を行った。
それから数年、私は村を離れ、都会で暮らすようになった。でも、黒沼のことは忘れられない。あの黒い水面、蠢く影、健太の血走った目……。今でも、夜中にふと目が覚めると、沼の底から聞こえるような低い唸り声が耳に響くことがある。
最近、村に残った知人から奇妙な話を聞いた。黒沼の水位が年々下がり、底が見え始めているという。そこには、まるで人の骨のようなものが無数に沈んでいるらしい。村人たちは誰も近づこうとしないが、夜になると、沼の周辺で誰かが歩く音が聞こえるという。
私は思う。あの沼の呪いは、まだ終わっていないのかもしれない。そして、健太は今もどこかで、沼の底のモノに囚われているのではないかと。
あなたは、黒沼のことを知っているだろうか?もし、青森の山奥で、黒い水面の沼を見かけたら、決して近づかないでほしい。そこには、あなたの魂を求める何かが、静かに待ち構えているかもしれないから。