愛媛県の市街地、雑多な商店街の裏手に広がる狭い路地裏。今から30年ほど前、1990年代の初頭、この町に住む若者たちは、夜の街に潜む不気味な噂を耳にしていた。
それは、深夜に路地裏を歩くと、背後から足音が聞こえるというものだった。その足音は、どんなに速く歩いても、どんなに立ち止まっても、ぴたりと自分の歩調に合わせて響く。振り返っても誰もいない。ただ、暗闇と冷たい空気だけがそこにある。だが、噂では、その足音に一度でも耳を傾けてしまった者は、決して家に帰れないと言われていた。
主人公の優子は、当時20歳の大学生だった。地元の短大に通い、アルバイトで稼いだお金で小さなアパートに一人暮らしをしていた。彼女は噂を「子供騙しの怖い話」と笑い飛ばしていた。友人の集まりで、誰かがその話をすると、「そんなの、酔っ払いの幻聴でしょ」と軽口を叩くのが常だった。
ある夏の夜、優子はいつものようにバイト先の居酒屋から帰宅する途中だった。時計はすでに深夜1時を回っていた。商店街のネオンは消え、街灯の薄い光だけがアスファルトを照らしていた。いつもなら大通りをまっすぐ歩いて帰るのだが、その日は少し酔っ払っていたこともあり、近道になる路地裏に入ってしまった。
路地は狭く、両側に古びたビルの壁が迫っていた。ゴミ袋が積まれた脇をすり抜け、湿った空気が鼻をつく。優子は鼻歌を歌いながら歩いていたが、ふと、背後から「カツ、カツ」という靴音が聞こえた。
「ん?」
立ち止まり、振り返る。誰もいない。路地の奥は暗闇に溶け、街灯の光が届かない。気のせいか、と笑いながら歩き出すと、また「カツ、カツ」。今度ははっきりと、自分の歩調に合わせて響く。優子は少しだけ心臓が跳ねるのを感じたが、酔いのせいだと自分を落ち着かせた。
「誰かいるの? ふざけてるなら出てきなよ」
声をかけてみたが、返事はない。ただ、足音だけが続く。優子は試しに歩く速度を上げた。すると、背後の足音も速くなる。立ち止まると、足音も止まる。まるで、彼女の影が音を立てているかのようだった。
「まさか、あの噂…?」
優子は笑いものだと思っていた噂を思い出した。だが、まさかそんなことがあるわけない。彼女は振り返らずに歩き続けた。路地の出口まであと少しだ。そこを抜ければ大通りで、明るいコンビニの光が見えるはずだった。
だが、足音はどんどん近づいてくる。まるで、背後にいる何かが間合いを詰めてくるように。「カツ、カツ」が「カツカツカツ」に変わり、優子の背筋に冷や汗が流れた。出口は見えているのに、なぜか遠く感じる。足が重い。まるで、誰かに掴まれているかのようだった。
「やめてよ…!」
思わず叫んだ瞬間、背後で「ヒュッ」と息を吸う音がした。人間のものとは思えない、鋭く乾いた音。優子は振り返るまいと必死に堪えた。噂では、振り返った者は二度と戻れない。彼女は走り出した。足音が追いかけてくる。出口が近づく。コンビニの光が見える。
やっと路地を抜けた瞬間、足音はぴたりと止んだ。優子はコンビニの駐車場に倒れ込み、息を切らしながら振り返った。路地の奥はただの暗闇。何も見えない。だが、彼女は確信していた。あそこに、何かがいた。
その夜、優子はアパートに帰り、ドアを固く閉めた。だが、眠れなかった。耳元で、かすかに「カツ、カツ」と音が響いている気がしたのだ。窓の外を見ると、街灯の下に人影が立っていた。顔は見えない。ただ、じっとこちらを見ている気がした。
翌日、優子は友人にその話をした。友人は顔を青くして言った。「あの路地、昔、事故があった場所なんだよ。夜道で襲われた人がいて、犯人は捕まらなかったって…」
優子はその話を聞いてから、決して路地裏には近づかなくなった。だが、時折、夜中に目を覚ますと、部屋の外から「カツ、カツ」と足音が聞こえることがあった。カーテンを開ける勇気は、彼女にはなかった。
それから数年後、優子は別の町に引っ越した。新しい生活を始め、恐怖の記憶も薄れていった。だが、ある日、彼女は地元のニュースで耳を疑うような話を聞いた。あの路地裏で、若い女性が行方不明になったというのだ。警察は事故として処理したが、近隣の住民は囁き合っていた。「また、あの足音が聞こえた」と。
今も、愛媛のその市街地では、深夜の路地裏を歩く者に、足音が付きまとうという。振り返らなければ、命は助かるかもしれない。だが、好奇心に負けて振り返った者は、暗闇に飲み込まれる。あなたは、夜道で背後の足音を聞いたことがあるだろうか? もし聞こえたなら、決して振り返ってはいけない。
(完)