数年前、大学の夏休みを利用して、友人のKと私は山梨県の山奥にある廃村を訪れた。目的は、廃墟探索だ。都会の喧騒を離れ、静かな山々に囲まれた場所で、朽ち果てた建物や忘れ去られた歴史に触れるのは、冒険心をくすぐるものだった。ネットで調べた情報によると、その廃村には古い寺があり、かつて不可解な事件が起きた場所として一部の好事家の間で話題になっていた。
私たちは、車で細い山道を登り、雑草に覆われた村の入口にたどり着いた。村は本当に静かだった。鳥のさえずりすら聞こえず、風が木々の間を抜ける音だけが響いていた。廃村の中心に、苔むした石段が続く古い寺が見えた。屋根は一部崩れ、木造の門は朽ちかけていたが、どこか威厳を保っているようにも見えた。Kは興奮気味に「ここ、めっちゃ雰囲気あるね!」と言い、カメラを手に持って写真を撮り始めた。私は少し躊躇したが、好奇心に負けて寺の境内へと足を踏み入れた。
境内には、風化した仏像や倒れた石灯籠が散乱していた。空気はひんやりとしていて、夏なのに肌寒さを感じた。寺の本堂に近づくと、扉が半開きになっているのが見えた。Kが「中、入ってみようぜ」と提案してきたが、私は何か胸騒ぎのようなものを感じていた。それでも、Kの勢いに押されて本堂の中へ入った。
本堂の中は、予想以上に暗く、埃っぽい匂いが鼻をついた。床には古い畳が敷かれ、ところどころ破れている。祭壇には、黒ずんだ仏像が置かれていたが、その顔はなぜか不気味に微笑んでいるように見えた。Kは「これ、めっちゃヤバい雰囲気じゃん!」と笑いながら写真を撮っていたが、私はだんだん落ち着かない気持ちになった。ふと、祭壇の奥に小さな扉があるのに気づいた。木製の扉は、まるで隠し部屋への入口のようだった。
「K、あの扉、なんか変じゃない?」私がそう言うと、Kは目を輝かせて「開けてみようぜ!」と近づいていった。私は止めたかったが、好奇心と恐怖がせめぎ合う中、Kがすでに扉に手をかけた。扉は意外にも簡単に開き、暗い階段が地下へと続いているのが見えた。懐中電灯の明かりで照らすと、階段の先は真っ暗で、底が見えない。「行くしかないでしょ!」Kはそう言って、半ば強引に私を引っ張って階段を下り始めた。
地下は、まるで時間が止まったような空間だった。壁には古い経文のようなものが彫られ、湿った空気が肌にまとわりついた。部屋の中央には、奇妙な円形の台座があった。台座の上には、黒い布に包まれた何かがあった。Kが「なんだこれ?」と布をめくると、中から古びた木箱が出てきた。箱の表面には、複雑な模様が彫られ、錆びた錠がかけられていた。私は「触らない方がいいよ」と警告したが、Kは「こんなの開けないわけにいかないじゃん!」と笑いながら錠を外した。
箱を開けた瞬間、部屋に異様な空気が流れた。まるで何かが目に見えない力で動き出したような感覚だった。箱の中には、古い紙と小さな人形が入っていた。人形は藁で作られた粗末なものだったが、目に見える部分に赤い染みが付いていて、まるで血のように見えた。紙には、墨で書かれた呪文のような文字が並んでいた。私は背筋が凍る思いだったが、Kは「これ、めっちゃレアなやつじゃん!」と興奮していた。
その時、地下室の奥からかすかな音が聞こえた。最初は風の音かと思ったが、よく聞くと、誰かが囁くような声だった。「…返せ…」低く、かすれた声が、どこからともなく響いてくる。私はKの腕をつかんで「もう出よう!」と言ったが、Kは「ちょっと待てよ、なんか面白いことになるかも!」と動こうとしなかった。だが、次の瞬間、地下室の空気が一変した。まるで重い霧が部屋を包み込むように、視界がぼやけ、息苦しさを感じた。囁き声はどんどん大きくなり、「…返せ…返せ…!」と繰り返すようになった。
私は恐怖で足がすくんだが、Kを引っ張って階段を駆け上がった。本堂に出た瞬間、背後でドン!という大きな音がした。振り返ると、地下への扉が勝手に閉まったのだ。Kもさすがに青ざめていた。私たちは急いで寺の外に出たが、境内に出た瞬間、異様な光景が目に入った。さっきまで静かだった廃村に、どこからともなく人影が現れていた。遠くの木々の間や、崩れた家の陰に、ぼんやりとした人影が立っている。まるで私たちを見ているようだった。
「K、走れ!」私は叫び、Kと一緒に車に向かって全速力で走った。車に飛び乗り、エンジンをかけると、バックミラーに映ったのは、寺の門の前に立つ一人の人影だった。黒い着物を着た女で、顔は見えないが、じっとこちらを見つめているようだった。Kが「何あれ!?」と叫んだ瞬間、女の姿は消えた。車を飛ばして山道を下り、ようやく麓の町にたどり着いた時、私たちは汗だくで震えていた。
それから数日後、Kが私の家にやってきて、青い顔で話した。あの寺で撮った写真を見返していたら、地下室で撮った写真に、誰もいないはずの背景に白い顔の女が映り込んでいたという。Kは「もう二度とあんなところ行かない」と震えながら言った。私もあの日のことを思い出すたびに、背筋が寒くなる。あの寺に何があったのか、箱の中の人形は何だったのか、今でもわからない。ただ、あの囁き声と、バックミラーに映った女の姿だけは、はっきりと脳裏に焼き付いている。
後日、廃村について調べたが、ネットにもほとんど情報はなかった。ただ、地元の古老に話を聞く機会があり、こんなことを言われた。「あの寺は、昔、呪術師が住んでいて、村人を呪った場所だ。ある日、村人たちが怒って寺を焼き払おうとしたが、逆に全員が謎の死を遂げた。それ以来、あの寺には近づかない方がいい」。私はその話を聞いて、改めてあの日の恐怖を思い出した。あの箱を開けたことで、何かを取り返しのつかないものを解き放ってしまったのかもしれない。
今でも、夜中にふと目を覚ますと、あの囁き声が聞こえる気がする。「…返せ…」。私は、あの寺には二度と近づかないと心に誓った。