鬼哭の森に響く声

実話風

数年前、愛媛県の山深い集落に住む私は、友人と共に地元の禁足地とされる森へ足を踏み入れた。その森は「鬼哭の森」と呼ばれ、昔から不思議な噂が絶えなかった。夜な夜な子どもの泣き声が聞こえ、足を踏み入れた者は二度と戻らないという。地元の古老たちは、戦時中にその森で起きた悲惨な事件が原因だと囁いていたが、詳細は誰も語らなかった。

私たちは半信半疑だった。現代の若者にとって、怪談なんて笑いものだ。友人の一人が「肝試しに行こうぜ」と提案し、軽い気持ちでその夜、懐中電灯とカメラだけを持って森の入り口に立った。月明かりは薄く、木々の隙間から冷たい風が吹き抜ける。森の奥からは、確かに何かしらの音が聞こえた。風の音か、動物の鳴き声か。それとも、ただの気のせいか。

「ビビってんじゃねえよ」と笑いながら、友人が先に進む。私も後に続いたが、足元は苔むした岩や根っこで滑りやすく、すぐに汗だくになった。森は思った以上に広く、すぐに方向感覚を失いそうになる。時計を見ると、入り口から30分ほどしか経っていないのに、まるで何時間も歩いているような錯覚に陥った。

突然、友人が立ち止まった。「おい、聞いたか?」彼の声は震えていた。私も耳を澄ませると、遠くから微かに子どもの泣き声のような音が聞こえた。風の音にしてはあまりにも人間的だ。冗談で「やめろよ、怖がらせんな」と笑ってみせたが、内心では背筋が凍る思いだった。

その瞬間、懐中電灯の光がチカチカと点滅し始めた。電池は新品のはずなのに、まるで何かに吸い取られるように光が弱っていく。友人が慌てて予備の懐中電灯を取り出そうとしたとき、背後でガサッと音がした。振り向くと、木々の間に白い影が一瞬だけ見えた。子どものような小さなシルエットだった。

「誰かいる!」友人が叫び、カメラを構えたが、シャッターを切る前にその影は消えた。私の心臓はバクバクと鳴り、足がすくんで動けなかった。すると、泣き声が今度はすぐ近くで聞こえた。「ママ…ママ…」という、か細い声。だが、その声には何か異様な響きがあった。人間の声なのに、どこか機械的で、感情が欠けているような。

友人が「逃げよう!」と叫び、私たちは来た道を全力で走り始めた。だが、どれだけ走っても森の入り口は見えない。木々はまるで生きているかのように私たちの行く手を阻み、根っこが足に絡みついてくる。パニックになりながらも、必死で走り続けた。すると、突然足元が崩れ、私は斜面を滑り落ちた。頭を強く打ち、意識が遠のく中、友人の叫び声が聞こえた。「来るな!やめろ!」

気がつくと、私は森の奥深くに横たわっていた。辺りは真っ暗で、懐中電灯もカメラもどこかに落としてしまったらしい。友人の姿はなく、静寂が耳を圧迫する。だが、その静寂を破るように、またあの泣き声が聞こえた。今度は私のすぐ後ろから。振り返る勇気はなかった。体が震え、冷や汗が止まらない。

「ママ…一緒に遊ぼう…」その声は、まるで私の耳元で囁いているかのようだった。ゆっくりと、首だけを動かして後ろを見ると、そこには白い着物を着た女の子が立っていた。彼女の顔は青白く、目は真っ黒で、まるで底なしの闇のようだった。彼女がニッコリと笑った瞬間、私は恐怖のあまり気を失った。

次に目覚めたとき、私は地元の病院のベッドにいた。友人は無事だったが、彼も私と同じように森の奥で気を失い、朝になって地元の猟師に発見されたらしい。彼はあの女の子のことは何も覚えていなかったが、カメラのメモリーカードには奇妙な写真が残されていた。そこには、誰もいない森の風景の中に、ぼんやりと白い影が映り込んでいた。

医者によると、私は頭を打ったことによる軽い脳震盪と、極度のショック状態だった。だが、それだけでは説明できないことがあった。私の背中には、まるで小さな手で引っかかれたような傷がいくつもついていたのだ。医者も看護師も、その傷の原因については何も言わなかったが、彼らの顔には明らかな恐怖が浮かんでいた。

退院後、私はあの森には二度と近づかなかった。だが、夜になると、時折あの女の子の声が頭の中で響くことがある。「ママ…また来てね…」その声は、まるで私の心の奥底に刻み込まれたかのように、決して消えることはない。

地元の古老に相談したところ、彼は重い口を開いてこう言った。「あの森には、戦時中に親を失った子どもたちの魂が彷徨っている。彼女たちは、寂しさと憎しみでこの世に縛られているんだ。」私はその言葉を聞いて、背筋が凍った。あの女の子は、私を「ママ」と呼んだ。彼女は、私を自分の母親だと思ったのだろうか。それとも、ただ私をあの森に引きずり込みたかっただけなのか。

今でも、愛媛の山奥を通るたびに、あの森のことを思い出す。そして、夜道を歩くとき、背後で子どもの泣き声が聞こえないかと、つい耳を澄ませてしまう。あの夜、私たちはただの肝試しだと思っていた。だが、鬼哭の森は、私たちに決して忘れられない恐怖を刻み込んだのだ。

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