霧の奥に潜むもの

モンスターホラー

数年前、大学の仲間たちと長野県の山奥にある古い山小屋を借りて、夏の終わりにキャンプに行った時の話だ。

私たちは都会の喧騒を離れ、自然の中でリフレッシュしようと計画を立てていた。メンバーは私を含めて五人。リーダーのような存在の陽気な男、物静かな生物学専攻の女子、いつも冗談を言うムードメーカー、慎重派の山好きの男、そして私。目的地は長野県の奥深い山間にある、ほとんど人が訪れない小さな集落の近くの山小屋だった。地図にもあまり載っていないような場所で、ネットで検索しても情報はほとんど出てこなかった。それでも、静かな場所で星空を見ながら過ごすのは最高の贅沢だと思っていた。

山小屋に到着したのは夕方近く。車を降りると、辺りはすでに薄暗く、霧が谷間を這うように漂っていた。空気はひんやりと湿っていて、どこか不思議な静けさに包まれていた。小屋は古びた木造で、軋む床と煤けた暖炉が時代を感じさせた。近くには小さな川が流れ、遠くで鳥の声が時折響く以外、ほとんど音のない世界だった。

初日は順調だった。焚き火を囲んでビールを飲み、星空を眺めながら他愛もない話をした。だが、その夜、妙なことが起こり始めた。ムードメーカーの男が、冗談半分で「この辺には昔、獣に襲われた猟師の幽霊が出るって話があるらしいぜ」と言い出した。誰も本気にはしなかったが、生物学専攻の女子が少し顔を曇らせた。「ここ、動物の気配が少ないよね。こんな森なのに、虫の声すらほとんど聞こえない」と呟いたのだ。確かに、よく考えれば、夜の森にしては異様に静かだった。

二日目の朝、霧はさらに濃くなっていた。視界は10メートルほどしかなく、山小屋の周囲は白いベールに覆われているようだった。慎重派の男が「こんな天気じゃハイキングは危ない」と提案し、私たちは小屋の周りで過ごすことにした。だが、その日の昼過ぎ、異変が起きた。川の近くで薪を集めていたリーダーが、慌てて小屋に戻ってきたのだ。「何か変なものを見た」と彼は言った。川の対岸、霧の向こうに、黒い影が動いていたという。人間のようだったが、動きがどこか不自然で、すぐに霧の中に消えたらしい。私たちは半信半疑だったが、リーダーの顔が本気で青ざめているのを見て、少し不安になった。

その夜、事態はさらに悪化した。夜中、突然、ムードメーカーが叫び声を上げて飛び起きた。「窓! 窓の外に何かいた!」彼は震えながら指さした。窓の外は真っ暗で、霧がガラスに張り付くように漂っていた。何も見えなかったが、彼は「目があった」と繰り返した。赤く光る目が、じっとこちらを見ていたというのだ。私たちは懐中電灯で外を照らしたが、霧が光を乱反射させ、何も確認できなかった。だが、その時、遠くから低いうなり声のような音が聞こえてきた。獣の唸り声とも、風の音ともつかない、不気味な響きだった。

翌朝、霧はさらに濃くなり、小屋の外はほとんど何も見えない状態だった。私たちは何かおかしいと感じ始めていた。携帯の電波は圏外、車は動くが、道が霧で覆われていて下山するのは危険だった。生物学専攻の女子が、落ち着いた声で言った。「この霧、普通じゃない。自然の霧なら、こんなに長く滞留しないはず。しかも、動物が全くいない。まるで何かから逃げてるみたいだ。」彼女の言葉に、私たちは背筋が寒くなった。

その日の夕方、慎重派の男が小屋の周りを調べに行った。彼はしばらくして戻ってきたが、その手には何かを持っていた。古びた革のノートだった。山小屋の物置の奥、埃にまみれた箱の中から見つけたという。ノートには、この辺りの山にまつわる古い記録が書かれていた。ほとんどが猟師の日記のようなものだったが、あるページに奇妙な記述があった。「霧の夜、黒い獣が現れる。目は血のように赤く、人の言葉を真似る。決して近づいてはならない。」その記述の最後には、震えるような字で「助けて」とだけ書かれていた。

私たちは恐怖に駆られていたが、逃げることもできず、小屋に閉じこもるしかなかった。その夜、ついにそれが現れた。深夜、窓の外からガリガリと爪で引っかくような音が聞こえてきた。懐中電灯で照らすと、霧の中に黒い影が浮かんでいた。人間のような形だったが、異様に長い腕と、かがんだ姿勢が不自然だった。そして、確かに目があった。赤く光る二つの目が、霧の向こうで私たちをじっと見つめていた。ムードメーカーがパニックになり、叫び声を上げると、影はゆっくりと後退し、霧の中に消えた。だが、その直後、窓の外から声が聞こえた。「助けて…」それは、私たちのリーダーの声を真似た、歪んだ声だった。

私たちは朝まで一睡もできなかった。翌朝、霧はまだ晴れていなかったが、私たちはもう耐えられず、車で下山を試みた。道は見づらく、恐怖で震えながら運転したが、何とか集落にたどり着いた。集落の老人に話を聞くと、彼は顔をこわばらせ、「あの山には近づかない方がいい。霧が濃い夜は、昔から何かが出るんだ」と言った。詳しく聞こうとしたが、老人はそれ以上何も話さなかった。

私たちは二度とその山小屋には戻っていない。あの黒い影が何だったのか、誰も知らない。だが、今でも霧の深い夜になると、あの赤い目と歪んだ声が頭から離れない。あの山には、何か人間の理解を超えたものが潜んでいる。私はそう確信している。

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