霧の森に響く声

ホラー

岩手県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた小さな村があった。そこは外界から隔絶され、時間が止まったかのような場所だった。村人たちは古くから伝わる言い伝えを守り、決して夜の森に足を踏み入れてはいけないとされていた。なぜなら、森の奥には「何か」が住んでいると囁かれていたからだ。

村に住む少年、健太は好奇心旺盛な性格だった。学校の友達との会話で、森の奥に古い祠があるという噂を耳にした。そこには「もう一つの世界に通じる門」があるという。興味を抑えきれなかった健太は、ある夏の夕暮れ、友達の慎と一緒に森へ向かった。村の大人たちの警告を無視して。

二人は懐中電灯を手に、森の入口に立った。昼間は涼しげだった森も、夕陽が沈むにつれて不気味な雰囲気を帯びていた。木々の間を抜ける風が、まるで誰かの囁き声のように聞こえた。「やめようよ、健太。なんか変な感じする…」慎が震える声で言ったが、健太は笑ってその不安を振り払った。「大丈夫だって!ちょっと見てくるだけだよ!」

森の奥に進むにつれ、空気は冷たく重くなり、鳥のさえずりも聞こえなくなった。代わりに、どこからか低いうめき声のような音が響いてきた。健太の心臓は早鐘のように鳴っていたが、好奇心が恐怖を上回っていた。やがて、二人は苔むした石の祠にたどり着いた。祠は古びており、扉の隙間からは黒い霧のようなものが漏れ出していた。

「これ、開けちゃダメなやつじゃ…?」慎が後ずさりながら言った。だが、健太はすでに祠の扉に手をかけていた。「ちょっとだけ覗くだけだよ!」彼はそう言って、扉をゆっくりと開けた。その瞬間、冷たい風が吹き抜け、二人の体を包み込んだ。祠の中は真っ暗で、何も見えなかったが、どこか遠くから声が聞こえてきた。「…おいで…おいで…」

その声は、まるで健太の心の奥底に直接響くようだった。慎は叫び声を上げて逃げ出したが、健太は動けなかった。声に吸い寄せられるように、祠の奥へ一歩踏み出した瞬間、彼の視界は歪み、まるで世界が反転したような感覚に襲われた。

気がつくと、健太は見知らぬ場所に立っていた。そこは森だったが、どこか現実のものとは異なっていた。木々は不自然にねじれ、空は紫がかった不気味な色をしていた。遠くで同じ声が響いていた。「…おいで…おいで…」健太は恐怖で足がすくんだが、なぜか体は勝手に声の方向へ動き始めた。

その世界では、時間が歪んでいるようだった。歩いても歩いても同じ景色が続き、健太の疲労は限界に達していた。ふと、彼の目の前に人影が現れた。それは彼自身にそっくりな少年だったが、目が真っ黒で、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。「お前、俺の代わりになれよ」とその少年は言った。健太は叫び声を上げて逃げようとしたが、足元が突然崩れ、彼は闇の中に落ちていった。

一方、慎は村に戻り、泣きながら大人たちに助けを求めた。村人たちは顔を見合わせ、静かに首を振った。「あの森に呼ばれた者は、戻ってこない」と年老いた村人が呟いた。それでも、慎は健太を助けようと翌日再び森へ向かった。しかし、祠は跡形もなく消え、ただの空き地が広がっているだけだった。

それから数年、村では健太の行方不明事件は語り草となった。慎は毎晩、健太の声が聞こえる悪夢にうなされた。「おいで…おいで…」その声は、まるで彼を森の奥に引きずり込もうとしているようだった。ある夜、慎は耐えきれず、懐中電灯を手に再び森へ向かった。そして、二度と戻らなかった。

村人たちはその後も森を避け続けた。だが、夜になると、森の奥からかすかな声が聞こえるという。「…おいで…おいで…」その声は、村の若者たちを誘い、決して帰らぬ旅へと導くのだった。

今でも、岩手県のその村では、夜の森に近づく者は誰もいない。だが、時折、森の奥から漏れる黒い霧を見たという者が現れる。そして、彼らは決まってこう言う。「あの霧の中に、誰かが立っていた。私の名前を呼ぶ声がした」と。

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