福島県の山深い小さな町に、俺は引っ越してきた。新しい仕事の都合で、都会の喧騒を離れ、静かな生活を求めての移住だった。町は古い木造の家々が並び、夜になるとまるで時間が止まったような静寂に包まれる。最初はそれが心地よかった。でも、すぐにその静けさが何か不気味なものを孕んでいることに気づいた。
俺が借りた家は、町外れの小さな丘の上に建つ一軒家だった。家賃が異様に安く、大家は「前の住人が急にいなくなったから」と曖昧に笑うだけだった。家の中は古びていたが、広くて快適だった。唯一気になったのは、押入れの奥にしまわれていた古い木箱。中には真っ赤な着物が入っていた。生地は古びているのに、色はまるで血のように鮮やかだった。気味が悪くて、箱ごと物置に放り込んだ。
引っ越して一週間ほど経ったある夜、妙な夢を見た。赤い着物を着た女が、俺の家の縁側に立っている。顔は見えない。長い黒髪が風に揺れ、彼女はただじっと家の中を覗き込んでいた。目が覚めると、汗で全身がびっしょりだった。夢だ、ただの夢だと自分に言い聞かせたが、胸のざわつきが収まらない。
次の日、町の小さなスーパーで買い物をしていると、店のおばちゃんが話しかけてきた。「あんた、丘の上の家に住んでるんだって? あそこ、昔は呪われた家って言われてたよ」彼女は声を潜め、まるで誰かに聞かれるのを恐れるように続けた。「昔、その家に住んでた女が、恋人に裏切られて自ら命を絶ったんだ。赤い着物を着てね。それ以来、その着物を着た女の幽霊が出るって噂になって…」俺は笑ってごまかしたが、背筋に冷たいものが走った。
その夜、また同じ夢を見た。今度は女が縁側に立つのではなく、家の中に入ってくる。足音もなく、滑るように近づいてくる。俺は動けない。彼女の手が俺の顔に触れる瞬間、目が覚めた。心臓がバクバクしていた。寝室の窓が少し開いていて、カーテンが風に揺れている。自分で開けた覚えはない。
翌朝、物置の木箱を確認しに行った。箱はそこにあったが、鍵が外れていた。中を見ると、着物が少しずれて、まるで誰かが触ったように見えた。ぞっとした。俺は箱を家の外に持ち出し、近くの川に捨てようと思った。でも、なぜか手が動かない。まるでその着物が「捨てるな」と俺に囁いているようだった。
それから、妙なことが続いた。夜中に家のどこかで物音がする。誰かが歩くような、畳を踏む音。窓の外に人影がちらつくこともあった。ある夜、ついに我慢できなくなって、俺は町の神社に相談しに行った。神主は俺の話を聞くと、顔を曇らせた。「その着物は、持ち主の怨念が宿っているかもしれない。捨てるのは危険だ。きちんと供養しないと、呪いが強くなるだけだ」
神主の指示通り、俺は着物を神社に持ち込み、供養の儀式を行ってもらった。儀式中、着物が燃やされる瞬間、まるで誰かが叫ぶような風の音がした。神主は「これで終わりだ」と言うが、俺の心はまだ落ち着かなかった。
家に帰ると、静けさが戻っていた。でも、どこかでまだ見られている気がする。夜、寝る前に窓を閉めると、ガラスに映る自分の顔の後ろに、赤い影が一瞬だけ見えた。振り返っても誰もいない。俺はただ、目を閉じて朝を待つしかなかった。
それから数ヶ月、怪奇現象は少しずつ減っていった。でも、完全に消えたわけじゃない。時折、夜中に畳を踏む音がする。窓の外にちらつく影。俺はもう慣れてしまったのかもしれない。この家に、この町に、彼女の怨念がまだ漂っていることを受け入れてしまったのかもしれない。
今でも、俺はこの家に住んでいる。仕事は順調だし、町の人たちも親切だ。でも、夜が来るたびに思う。あの赤い着物は、本当に供養されたのか。それとも、彼女はまだ俺のそばにいるのか。答えはわからない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。この家に住む限り、俺は彼女の呪いから逃れられないということだ。