凍てつく森の囁き

実話風

数十年前、北海道の山深い集落に、若い夫婦が暮らしていた。夫は林業を営み、妻は家を守る慎ましい生活。集落の外れ、雪に閉ざされた森のほとりに建つ小さな家で、二人はささやかな幸せを築いていた。だが、その冬、異変が訪れた。

ある晩、夫がいつものように仕事から帰ると、妻の様子がおかしかった。普段は穏やかな彼女が、怯えた目で窓の外をじっと見つめている。『何かいる』と、震える声で呟いた。夫は疲れからくる気のせいだと笑い飛ばしたが、妻の目は本物の恐怖に濡れていた。

その夜、夫は奇妙な夢を見た。真っ白な雪原の真ん中に、黒い影が立っている。影は人の形をしていたが、顔はなかった。いや、顔があるはずなのに、なぜか見えない。影はゆっくりと夫に近づき、耳元で囁いた。『お前も見ただろう』。その声は、凍えるような冷たさで心臓を締め付けた。目が覚めると、妻が布団の中で震えていた。『あれ、見たでしょ』と、彼女は言った。夫は言葉を失った。同じ夢を見たのだ。

翌日から、夫婦の周りで異変が続いた。家の周囲に、人の足跡とも獣の足跡ともつかない不気味な跡が残るようになった。雪の上に刻まれたそれは、家の周りをぐるりと囲むように円を描いていた。夫は猟銃を手に森へ足跡を追ったが、途中で跡は消え、ただ深い森の闇が広がるだけだった。集落の古老に相談すると、彼は顔を曇らせ、こう言った。『あの森には、昔から何かいる。触れちゃいけないものだ』。

古老の話では、数十年前、森の奥で猟師が消息を絶ったことがあった。雪崩に巻き込まれたとされたが、遺体は見つからず、ただ猟師の銃だけが雪の中で見つかったという。以来、冬になると、森から奇妙な音が聞こえるようになった。人の声とも、風の唸りともつかない音。集落の者は、森の奥には近づかないという暗黙の掟があった。

夫は古老の話を半信半疑で聞き流したが、妻の恐怖は日増しに強くなった。夜になると、彼女は窓の外をじっと見つめ、『また来た』と呟くようになった。夫もまた、夜中に目を覚ますと、窓の外に黒い影が揺れているのを見た気がした。影は動かず、ただじっと家を見つめているようだった。夫は銃を握り、妻を抱きしめて夜をやり過ごした。

ある吹雪の夜、事態は急変した。家の扉が、ドンドンと激しく叩かれた。夫が銃を手に玄関に近づくと、妻が叫んだ。『開けちゃダメ! あれは人間じゃない!』。だが、叩く音は止まず、まるで家そのものを揺さぶるような力だった。夫は意を決して扉を開けた。そこには誰もいなかった。ただ、雪の上に、あの不気味な足跡が続いていた。足跡は家の中へと入り、夫婦の寝室の前で途切れていた。

妻は泣き叫び、夫は恐怖で体が動かなかった。その夜、家の周囲を歩き回る足音が一晩中響いた。翌朝、夫が外を確認すると、足跡は家の周りを何重にも囲んでいた。まるで、夫婦を閉じ込めるように。集落の者に助けを求めたが、誰も森の近くには来ようとしなかった。『あんたたちが何か呼び寄せたんだ』と、冷たい目で突き放された。

その夜、妻が突然起き上がり、窓の外を指さした。『あそこにいる』。夫が見ると、森の木々の間に、黒い影が立っていた。顔はないのに、こちらを見ている気がした。影はゆっくりと手を伸ばし、夫婦を招くように動いた。妻がフラフラと窓に近づき、夫は必死に彼女を止めた。だが、妻の目は虚ろで、まるで何かに操られているようだった。

翌日、妻は消えた。夫が目を覚ますと、彼女の姿はどこにもなかった。家の扉は開け放たれ、雪の上には妻の足跡が森の奥へと続いていた。夫は猟銃を手に森へ飛び出した。吹雪の中、妻の足跡を追うが、途中であの不気味な足跡と混ざり合い、どちらが妻のものかわからなくなった。森の奥深くで、夫は叫び声を聞いた。妻の声だった。だが、声はすぐに途切れ、森は再び静寂に包まれた。

夫は妻を探し続けたが、彼女の姿は見つからなかった。集落に戻った夫は、まるで人が変わったようだった。口数は少なくなり、夜になると家の外をじっと見つめるようになった。集落の者は、彼を避けるようになった。やがて、夫もまたある冬の夜に姿を消した。家には、猟銃だけが残されていた。

それ以来、集落では冬になると、森から奇妙な音が聞こえるという。人の声とも、風の唸りともつかない音。そして、家の周りに不気味な足跡が現れる。集落の者は、こう囁く。『あの夫婦は、森のものに連れていかれた』と。誰も森の奥には近づかない。だが、夜になると、森の木々の間から、黒い影がこちらを見つめているという。

今でも、吹雪の夜には、森の奥から誰かを呼ぶ声が聞こえる。『お前も見ただろう』と。あなたは、その声を聞いたことはないだろうか?

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