明治の初頭、徳島の鳴門の海辺に小さな漁村があった。そこに住む若者、源次は、村一番の漁師として知られていた。朝焼けとともに船を出し、夕暮れには新鮮な魚を手に戻ってくる。そんな彼の暮らしは、質素ながらも穏やかだった。
ある夏の夜、源次はいつものように船を漕ぎ出し、鳴門の渦潮近くで網を投げていた。満月の光が海面を銀色に染め、波の音だけが響く静かな夜だった。だが、その夜はどこか異様だった。海がいつもより重たく、網を引き上げる手応えが妙に軽い。訝しがりながら網をたぐると、そこには魚一匹なく、ただ黒い海藻のようなものが絡まっていた。よく見ると、それは海藻ではなく、長い髪の束だった。
「こんな深いところで、髪の毛だと?」
源次は背筋に冷たいものを感じたが、気丈にもそれを船に引き上げた。髪は異様に長く、まるで生きているかのように船底で蠢いていた。彼は慌ててそれを海に投げ捨てたが、その瞬間、遠くの渦潮の中心から低い唸り声のようなものが聞こえてきた。波の音とも、風の音とも違う、まるで人の声のような、不気味な響きだった。
翌日、源次は村の長老にこの話を打ち明けた。長老は顔を曇らせ、こう語った。
「それは『渦の女』の仕業かもしれん。昔、鳴門の渦に引きずり込まれた女がいてな、その怨念が海に棲みついたという。満月の夜に現れ、漁師を惑わす。決して近づくな。」
源次は半信半疑だったが、その夜以降、漁に出るたびに妙なことが続いた。網には魚の代わりに髪の束が絡まり、船の周りでは小さな渦が突然現れては消えた。ある晩、ついに我慢できなくなった源次は、渦の中心に船を向けた。「こんな迷信に怯えてたまるか」と自分を鼓舞しながら、満月の下で漕ぎ進んだ。
渦の中心に近づくにつれ、海は不自然なほど静かになった。月光が水面を鏡のように照らし、まるで時間が止まったかのようだった。すると、突然、船が大きく揺れた。見下ろすと、水面に女の顔が浮かんでいた。青白い顔、長い黒髪が水面を這うように広がり、目だけが異様に大きく、源次をじっと見つめていた。
「お前は…何だ?」
源次が叫ぶと、女の口がゆっくり開き、言葉にならない声が響いた。それは悲しみとも怒りともつかぬ、胸を締め付けるような音だった。次の瞬間、船が急に傾き、源次は海に投げ出された。冷たい水が彼を飲み込み、暗闇の中で女の顔が近づいてくる。彼女の手が、まるで水そのもののように源次の足を絡め、引きずり込んだ。
村では、源次の船が翌朝、浜に打ち上げられているのが見つかった。だが、源次の姿はどこにもなかった。村人たちは恐れおののき、誰も渦の近くには近づかなくなった。それでも、満月の夜になると、渦の中心から女の声のような唸りが聞こえ、漁師たちは船を出すのをためらうようになった。
時は流れ、村の若い娘、里江がこの話を耳にした。里江は好奇心旺盛で、村の古老たちの迷信を笑いものにしていた。ある満月の夜、彼女はこっそり小さな舟を借り、渦の近くへと漕ぎ出した。「源次の話なんて、ただの作り話さ」と自分に言い聞かせながら。
月明かりの下、里江の舟は静かに進んだ。渦の中心に近づくと、彼女は確かに何かを感じた。空気が重く、耳鳴りのような音が響く。すると、水面に影が揺れた。里江が目を凝らすと、そこには女が立っていた。いや、立っているのではなく、水面に浮かんでいるのだ。長い髪が波に揺れ、青白い顔が里江をじっと見つめていた。
里江は恐怖で凍りついたが、なぜかその女の目には深い悲しみが宿っているように見えた。女がゆっくりと手を伸ばすと、里江の舟は小さな渦に巻き込まれ、ぐるぐると回り始めた。里江は必死に櫂を握り、渦から逃れようとしたが、舟はまるで意志を持ったかのように動かなかった。
「なぜ…私を…」
里江が声を絞り出すと、女の口が開き、初めてはっきりとした声が聞こえた。
「お前も…知るがいい…私の苦しみを…」
その声は、まるで海の底から響くようだった。里江の意識はそこで途切れ、気がつくと彼女は浜辺に打ち上げられていた。村人たちに発見された時、里江の髪は真っ白になっており、彼女は二度と海に近づかなかった。それ以来、里江は口を閉ざし、何を見たのか、何を聞いたのか、決して語らなかった。
村では、渦の女の伝説がさらに色濃く語り継がれるようになった。満月の夜、鳴門の渦の中心には、決して近づいてはならない。そこには、怨念とも悲しみともつかぬものが潜み、近づく者を海の底へと引きずり込むのだ。
今もなお、鳴門の海では、満月の夜に不気味な唸り声が聞こえるという。漁師たちはその音を聞くと、すぐに船を陸に引き上げる。そして、誰もがこう囁くのだ。
「渦の女が、また誰かを呼んでいる…」