霧隠れの里の亡魂

実話風

明治の初頭、島根の山深い里に、ひっそりと佇む小さな村があった。そこは霧が濃く、日の光も届かぬほどに鬱蒼とした森に囲まれ、村人たちは外界との交流をほとんど持たず、ひそやかな暮らしを営んでいた。村の名は「霧隠れ」と呼ばれ、古老たちは「この地には古の神々が棲む」と語り継ぎ、夜な夜な森の奥から聞こえる不気味な音を、神々の囁きと畏れていた。

村の外れに、朽ちかけた社があった。苔むした石段を登った先に、ひび割れた鳥居と、風雨に晒された小さな祠が佇む。村人たちはその社を「封じの社」と呼び、決して近づいてはならぬとされていた。なぜなら、社には古来より村を見守る神が封じられていると同時に、禍々しい何かが共に閉じ込められていると伝えられていたからだ。古老たちは口を揃えてこう言った。「あの社に近づく者は、決して帰ってこない」と。

村に住む若者、健太は、そんな言い伝えを笑いものだと考えていた。都会から戻ったばかりの彼は、村の因習や迷信を古臭いものと軽んじていた。ある日、村の若者たちが酒を酌み交わす席で、健太は仲間たちにこう豪語した。「あの社に夜行ってみせるよ。何も起こらんさ。神も鬼も、ただの作り話だ。」

仲間たちは顔を見合わせ、口々に止めた。「やめとけ、健太。あの社は本当におかしいんだ」「夜の森は普通じゃない。変な音が聞こえるぞ」と。しかし、健太は笑い飛ばし、「臆病者め」と一蹴した。その夜、満月の光が霧を薄く照らす中、健太は一人、提灯を手に社の石段を登り始めた。

森は静まり返っていた。いや、静かすぎた。普段なら虫の声や獣の遠吠えが聞こえるはずなのに、その夜は何の音もなかった。健太の足音だけが、枯れ葉を踏むカサカサという音を立て、妙に大きく響いた。提灯の明かりが揺れ、霧の中に浮かぶ木々の影が、まるで生き物のようにうごめいているように見えた。健太は内心で少しの不安を覚えたが、意地を張って進んだ。

石段を登り切ると、目の前にひび割れた鳥居が現れた。その先には、黒ずんだ木の祠が、まるで何かを待ち構えるように佇んでいた。健太は深呼吸し、祠に近づいた。すると、突然、背筋が凍るような感覚が彼を襲った。まるで誰かに見られているような、冷ややかな視線を感じたのだ。彼は振り返ったが、そこには誰もいなかった。ただ、霧が一層濃くなり、提灯の光が届かなくなっていた。

「馬鹿馬鹿しい」と自分を奮い立たせ、健太は祠の前に立った。祠の扉は古びており、触れると崩れそうなほどだった。彼は意を決して、扉に手をかけた。その瞬間、低い唸り声のような音が、祠の奥から聞こえてきた。ゴオオオ……。それは風の音とも、獣の声ともつかぬ、異様な響きだった。健太の手が震えたが、好奇心が恐怖を上回り、彼は扉を開けた。

中は真っ暗だった。提灯を掲げても、光は闇に飲み込まれるように消えた。だが、その闇の奥で、何かが動いた。白い影が、ゆらりと揺れたのだ。健太の心臓が早鐘を打った。「誰だ!」と叫んだが、声は霧に吸い込まれ、反響すらしなかった。白い影はゆっくりと近づいてきた。それは女だった。長い黒髪が顔を覆い、ぼろぼろの着物をまとった女が、地面を這うように近づいてくる。彼女の顔は見えず、ただ、異様に長い腕が、地面を掻くように動いていた。

健太は後ずさったが、足が石段に引っかかり、転倒した。提灯が地面に落ち、火が消えた。暗闇の中で、女の気配がすぐ近くに迫ってくる。カサカサという、枯れ葉を踏むような音が、健太の耳元で響いた。「見ズナ……見ズナ……」と、女の声が囁いた。声は低く、まるで喉の奥から絞り出すような不気味さだった。健太は叫び声を上げ、這うようにして石段を駆け下りた。

村に戻った健太は、顔面蒼白で震えていた。仲間たちにその夜のことを話したが、誰も信じなかった。「お前、酒の飲みすぎだろ」と笑われた。しかし、それ以降、健太は人が変わったようにおとなしくなり、夜になると家から一歩も出なくなった。村人たちは囁き合った。「あいつ、社で何かを見たんだろう」と。

数日後、健太の様子がおかしいことに、村の長老が気づいた。彼は夜な夜なうなされ、寝言で「見ズナ、見ズナ」と繰り返していた。長老は村の古老たちを集め、健太を祠に連れ戻すことを決めた。「あの社は、触れてはならぬものを呼び覚ます。健太の魂を取り戻さねばならん」と。

月明かりのない夜、長老たちと健太は再び社に向かった。健太は怯え、足を踏み出すたびに震えていた。石段を登る途中、霧が一層濃くなり、まるで生き物のように彼らを包み込んだ。長老が持つ護符が、かすかに光を発していた。社の前で、長老は古い祝詞を唱え始めた。すると、祠の奥から、再びあの低いうなり声が響いた。ゴオオオ……。

突然、健太が叫び声を上げた。「あそこ! あそこにいる!」彼が指さす先には、白い影が揺れていた。長老たちは動じず、祝詞を続けた。だが、影は次第に数を増やし、祠の周りをぐるりと取り囲んだ。白い着物をまとった女たちが、顔の見えないまま、ゆっくりと近づいてきた。彼女たちの手は異様に長く、地面を這うたびに、カサカサと不気味な音を立てた。

長老の一人が叫んだ。「下がれ! これは神の眷属ではない!」護符を掲げると、影たちは一瞬後退したが、すぐに再び迫ってきた。健太は恐怖のあまりその場に崩れ落ち、泣き叫んだ。「見ズナ! 見ズナ! おれを見ないでくれ!」長老たちは必死に祝詞を唱え続けたが、霧はますます濃くなり、視界が閉ざされた。

翌朝、村人たちが社に駆けつけると、そこには誰もいなかった。健太も長老たちも、跡形もなく消えていた。ただ、祠の扉が開け放たれ、内部に真っ黒な染みが広がっているのが見えた。村人たちは恐れおののき、以来、誰も社に近づかなくなった。

それから数年、霧隠れの里は次第に人が減り、やがて廃村となった。だが、旅人たちの間ではこんな噂が囁かれている。霧深い夜、森の奥で白い影を見たという者。カサカサという音とともに、長い腕の女が現れ、「見ズナ」と囁くのだと。彼女たちを見た者は、決して帰ってこないという。

今もなお、島根の山奥には、霧に閉ざされた社がひっそりと佇んでいる。あなたがもし、その場所に迷い込んだなら、決して祠の扉を開けてはならない。なぜなら、そこには「見ズナ」と囁く者たちが、静かにあなたを待っているかもしれないのだから。

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