数年前、奈良県の山奥にある小さな集落に引っ越してきた俺は、そこで奇妙な体験をした。
その集落は、奈良の古い歴史が息づく場所だった。鹿が自由に歩き、苔むした石仏が道端に佇む、静かな場所。だが、夜になると雰囲気が一変する。森の奥から聞こえる不気味な音。まるで誰かが木々を掻き分けるような、ガサガサという音が響く。地元の人々は「夜は森に近づくな」と口を揃えて言うが、理由を尋ねても誰もはっきり答えない。ただ、目を逸らし、どこか怯えた表情を見せるだけだった。
俺は好奇心旺盛な性格で、都会から移り住んだばかりの新参者だ。地元の言い伝えを半信半疑で聞き流していた。ある晩、仕事が遅くなり、集落の外れにある自宅へ帰る途中、森の入り口近くを通った。月明かりが薄く、木々の影が地面に長く伸びている。ふと、森の奥から低い唸り声のような音が聞こえた。動物にしては不自然で、まるで機械が軋むような、不協和音だった。
「なんだ、あれ?」
好奇心が恐怖を上回り、俺は懐中電灯を手に森の小道に足を踏み入れた。普段なら鹿や鳥の気配が感じられるはずなのに、その夜は異様に静かだった。空気が重く、まるで何かが見えない力で抑えつけているよう。懐中電灯の光を頼りに進むと、木々の間に奇妙なものが見えた。最初は岩かと思ったが、よく見るとそれは岩ではなく、異様に滑らかな表面を持った、黒い球体だった。大きさはバスケットボールほど。表面はまるで液体のように光を反射し、中心には赤い光点が脈打つように点滅していた。
近づこうとした瞬間、背筋に冷たいものが走った。振り返ると、暗闇の中に人影のようなものが立っていた。だが、それは人間ではなかった。背が高く、異様に細長いシルエット。頭部には目らしきものがない。ただ、顔の部分に無数の小さな穴が開いていて、そこからかすかに赤い光が漏れていた。恐怖で足がすくみ、動けなかった。そいつはゆっくりと、まるで浮くように近づいてくる。懐中電灯の光を向けると、その光を吸い込むように影が揺らめいた。
「逃げなきゃ…!」
やっとの思いで体を動かし、森の外へ走った。背後でガサガサと木々が揺れる音が追いかけてくる。心臓が破裂しそうなほど鼓動が速まり、冷や汗が止まらない。集落の明かりが見えた瞬間、振り返るとその影は消えていた。だが、森の奥からはまだあの不協和音が響いていた。
家にたどり着き、ドアを施錠してからも心臓の鼓動は収まらなかった。翌日、集落の古老にその話をすると、彼は顔を青ざめさせた。「あれは『森の目』だ」と。古老の話では、数十年前、奈良のこの森に「何か」が落ちてきたという。村人たちはそれを神の使いだと崇めたが、やがて異様な出来事が増え、村は封印するように森を避けるようになった。古老は「二度と近づくな」と警告したが、詳しい話は避けた。
それから数日後、俺は再び森の近くを通らざるを得なかった。仕事で遅くなり、迂回路を使えず、森の脇の道を急いで歩いた。すると、またあの音。今回は唸り声ではなく、まるで囁くような声だった。聞き取れない言葉が、頭の中に直接響くような感覚。足を止め、恐る恐る森を見ると、あの黒い球体が再び現れた。今度は一つではなく、複数。木々の間に浮かび、赤い光点が俺をじっと見つめているようだった。
突然、頭の中に映像が流れ込んできた。まるで誰かに記憶を押し付けられるように、奈良の森が燃え、人が叫び、異形の影が空を覆う光景。未来なのか、過去なのか、わからない。ただ、恐怖と絶望だけが胸を締め付けた。その瞬間、球体の一つが動き、俺の方へゆっくりと浮かんでくる。叫び声を上げ、走って逃げたが、頭の中の声は止まない。「見つけた」「還れ」「我々のもの」と、繰り返し囁く。
集落に戻った俺は、すぐに荷物をまとめ、翌日には引っ越した。都会に戻り、普通の生活に戻ったが、あの森での出来事は頭から離れない。夜、目を閉じるとあの赤い光点が脳裏に浮かぶ。時折、夢の中であの囁き声が聞こえる。まるでまだ俺を追っているかのように。
最近、奈良のあの集落がニュースになった。森の奥で奇妙な構造物が見つかり、科学者たちが調査に入ったという。だが、調査チームの一部が行方不明になり、調査は中断されたらしい。俺は知っている。あの森には人間が理解できない「何か」がいる。あの黒い球体と、顔のない影。あれは神でも、動物でもない。もっと古く、もっと深い、地球のものではない何かだ。
今でも、静かな夜にはあの不協和音が耳に蘇る。そして、思う。あの森は、俺をまだ見ている。