深夜の団地に響く足音

実話風

それは今から20年ほど前、茨城県のとある市街地に建つ古びた団地での出来事だった。

その団地は、かつて高度経済成長期に建てられたもので、鉄筋コンクリートの無機質な外観が特徴だった。昼間は子供たちの笑い声や主婦たちの井戸端会議で賑わっていたが、夜になると妙に静まり返り、まるで別の世界に迷い込んだような雰囲気が漂う場所だった。住民たちは、夜遅くに団地の廊下を歩く足音や、誰もいないはずの階段から聞こえる奇妙な物音について、ひそひそと噂し合っていた。しかし、誰もが「ただの気のせい」と笑いものにし、深く追求することはなかった。

主人公の美咲は、大学を卒業したばかりの22歳で、就職を機にこの団地に引っ越してきた。実家から離れ、初めての一人暮らしに胸を躍らせていた彼女だったが、どこか古びた団地の雰囲気には馴染めなかった。特に、夜になると聞こえる「何か」の音が気になっていた。彼女の部屋は5階にあり、エレベーターのない古い建物だったため、毎晩長い階段を上り下りする必要があった。階段は薄暗く、蛍光灯がチカチカと点滅し、足音がコンクリートの壁に反響する。美咲は、その音が自分のものだと自分に言い聞かせながら、急いで部屋に戻るのが常だった。

ある晩、残業で遅くなった美咲が団地に帰宅したのは、時計が深夜1時を回った頃だった。疲れ果てた彼女は、いつものように重い足取りで階段を上り始めた。1階、2階と進むにつれ、静寂が耳に痛いほどだった。だが、3階に差し掛かった時、背後から「タッ、タッ」という軽い足音が聞こえた。美咲は振り返ったが、誰もいない。階段の踊り場には、薄暗い蛍光灯の光だけが揺れている。「疲れてるからだろ」と呟き、彼女は歩みを速めた。しかし、4階に着く頃には、その足音はさらに近くなり、まるで誰かがすぐ後ろで歩いているようだった。心臓がドクドクと鳴り、冷や汗が背中を伝う。美咲は我慢できず、振り返った。だが、そこには誰もいない。ただ、階段の奥から、かすかに「ヒューッ」という風のような音が聞こえただけだった。

部屋にたどり着いた美咲は、鍵をかけて深呼吸した。「ただの気のせいだ」と自分を落ち着かせ、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。しかし、その夜、彼女は奇妙な夢を見た。夢の中で、彼女は団地の階段を永遠に上り続けている。背後からは、誰かの足音が追いかけてくる。振り返っても誰もいないのに、足音はどんどん近づいてくる。恐怖で足がすくみ、動けなくなった瞬間、冷たい手が彼女の肩に触れた。その感触に飛び起きた美咲は、汗だくだった。時計を見ると、ちょうど3時3分3秒。窓の外からは、どこからか聞こえる「タッ、タッ」という足音が、かすかに響いていた。

翌日、美咲は団地の管理人にその話をしてみた。管理人は、70歳近い穏やかな老人だったが、彼女の話を聞くと一瞬顔を曇らせた。「あぁ、あの足音か」と彼は呟き、渋々といった様子で話し始めた。20年以上前、この団地で若い女性が階段で転落死した事故があったという。彼女は夜遅くに帰宅途中、誰かに追いかけられているような錯覚に襲われ、慌てて階段を駆け上がった末に足を滑らせたのだと。管理人は「噂話だから気にしないでくれ」と笑ったが、目にはどこか怯えたような光があった。

それ以来、美咲は夜遅くに階段を使うことを避けるようになった。だが、どうしても残業で遅くなる日があった。そんな夜、彼女はイヤホンで音楽を流し、足音を聞かないようにして階段を上った。だが、5階にたどり着いた瞬間、イヤホンをしていても聞こえるほどの大きな「タッ、タッ、タッ!」という足音が背後から迫ってきた。美咲は振り返らず、必死で部屋に駆け込み、鍵をかけた。ドアの向こうで、足音はピタリと止まった。息を潜めて耳を澄ますと、ドアの隙間から「ヒューッ」という風のような音が聞こえてくる。彼女は恐怖で動けず、朝まで電気をつけたまま過ごした。

数日後、美咲は団地の他の住民に話を聞いてみることにした。すると、驚くべきことに、複数の住民が似たような体験をしていた。ある男性は、夜中に階段で誰かに肩を叩かれたが、振り返ると誰もいなかったと言い、別の女性は、部屋のドアノブが勝手にガチャガチャと動く音を聞いたと話した。どの話にも共通していたのは、足音と、冷たい風のような音だった。美咲は、恐怖と共に、好奇心も湧いてきた。この団地には、何かがある。彼女は、インターネットや地元の図書館でこの団地の歴史を調べ始めた。

調べていくうちに、彼女は衝撃的な事実に行き当たった。管理人が話した転落死の女性は、実はこの団地で暮らしていた美咲と同じ歳の女性だった。彼女は生前、ストーカー被害に悩まされており、夜道で誰かに追いかけられる恐怖を日記に綴っていたという。その日記は、彼女の死後、家族によって寄贈され、図書館の郷土資料室に保管されていた。美咲は震える手でその日記を読み進めた。そこには、「誰かがいつも後ろにいる」「足音が聞こえる」「助けて」と、切実な言葉が並んでいた。最後のページには、「今夜、絶対に逃げ切ってみせる」と書かれていた。その夜、彼女は階段で死に、事件は事故として処理された。

美咲は、その女性の恐怖が、まるで自分の体験と重なることに寒気を覚えた。彼女は団地に戻るのが怖くなり、友人の家にしばらく身を寄せることにした。だが、友人の家にいても、夜中に「タッ、タッ」という足音が聞こえることがあった。それは、まるで彼女を追いかけてくるかのようだった。ある夜、友人の家の玄関で、ドアの向こうから「ヒューッ」という風の音が聞こえた瞬間、美咲は決意した。この恐怖から逃れるには、向き合うしかない。

彼女は団地に戻り、深夜3時に階段に立った。懐中電灯を手に、ゆっくりと階段を上り始めた。心臓が破裂しそうなほど緊張していたが、彼女は自分に言い聞かせた。「私は逃げない」と。3階に差し掛かった時、背後から足音が聞こえた。「タッ、タッ、タッ」。美咲は振り返らず、ただ前を向いて歩き続けた。足音はどんどん近づき、冷たい風が首筋を撫でた。5階にたどり着いた瞬間、彼女は叫んだ。「もう追いかけないで! あなたは自由よ!」

その瞬間、足音はピタリと止まった。風の音も消え、団地は静寂に包まれた。美咲は涙を流しながら、部屋に戻った。それ以来、足音は聞こえなくなった。だが、彼女は二度とその団地で夜遅くに階段を使うことはなかった。数ヶ月後、彼女は別の街に引っ越した。

今でも、その団地に住む人々は、深夜に階段で聞こえる足音を語り継いでいる。誰もが「ただの気のせい」と笑うが、その笑顔には、どこか恐怖が潜んでいる。美咲は今、別の街で穏やかに暮らしているが、時折、夜中に目が覚めると、遠くから「タッ、タッ」という足音が聞こえる気がして、飛び起きることがあるという。

タイトルとURLをコピーしました