私の名前は…まあ、名前はいいか。岩手県の山奥に生まれ育ったただの男だ。今から10年ほど前、2015年の冬、俺がまだ20代半ばだった頃の話だ。あの夜、俺は死にかけた。そして、あの山で見たものは、今でも夢に出てきて俺を震え上がらせる。
その年、俺は地元の土木会社で働いていた。冬の岩手は雪深く、仕事は山の斜面を補強する作業が主だった。12月の半ば、いつものように同僚たちと山へ向かった。現場は県北の山間部、車で2時間ほど走った先にある集落からさらに奥に入った場所だ。そこは地元でも「出る」と噂される山だった。昔、遭難者や行方不明者が何人も出た場所で、年配の同僚は「夜は絶対に近づくな」と口を酸っぱくして言っていた。
その日の作業は順調だった。午後3時頃、雪がちらつき始めたので、早めに切り上げることにした。だが、問題はそこからだった。俺たちのトラックが、凍った山道でスリップして動かなくなったんだ。携帯の電波は圏外。集落まで歩いて助けを呼ぶしかなかった。だが、雪はどんどん強くなり、視界はほぼゼロ。仕方なく、俺と先輩の二人でトラックに残り、他の三人が助けを呼びに行くことになった。
「夜までには戻る」と言い残し、彼らは吹雪の中を去った。トラックの中はエンジンを切っても寒さが染み込み、俺と先輩は毛布をかぶって震えていた。外は真っ暗で、風の唸り声と雪が車体を叩く音だけが響く。先輩は「こんな夜は山の神様が怒るぞ」と冗談めかして笑ったが、俺はなぜかその言葉に背筋が凍った。
時間が経つにつれ、トラックの窓は雪で埋まり、外の様子は全く見えなくなった。時計は夜の8時を回っていた。助けが来る気配はない。燃料も底をつき、ヒーターは止まった。寒さで指先が感覚を失い、意識が朦朧とし始めたその時、異変が起きた。
ガリガリ…ガリガリ…。
窓の外から、何かが爪で車体を引っかくような音が聞こえた。最初は風のせいだと思った。だが、音は規則的で、まるで誰かが意図的にやっているようだった。先輩も気づいたらしく、「おい、聞いたか?」と小声で言った。俺は頷き、息を殺して耳を澄ませた。
ガリガリ…ガリガリ…。そして、突然、ドン!と車体が揺れるほどの衝撃。俺たちは飛び上がり、毛布を握り潰した。「何だ!?」と先輩が叫ぶ。俺は震える手で懐中電灯を手に取り、窓の雪を少しだけ擦って外を覗いた。だが、何も見えない。真っ白な雪と闇だけだ。
「気のせいだろ…」と先輩が自分を落ち着かせるように呟いた瞬間、今度ははっきりと声が聞こえた。
「…たす…け…て…」
女の声だった。掠れた、まるで喉が潰れたような声。俺と先輩は顔を見合わせた。こんな吹雪の山奥に人がいるはずがない。なのに、声は続いた。「たすけて…ここに…いる…」。声はトラックのすぐ近く、まるで窓のすぐ外から聞こえるようだった。
「おい、絶対にドアを開けるなよ!」と先輩が叫んだ。だが、俺の心は揺れていた。もし本当に誰かが遭難しているなら、見捨てるわけにはいかない。でも、この状況が普通じゃないことは本能で分かっていた。俺は懐中電灯を握りしめ、意を決して窓をもう一度擦った。
その瞬間、窓の外に顔があった。
青白い、凍りついた女の顔。目は真っ黒で、口が不自然に裂けていた。彼女は俺をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。「…いっしょに…こい…」。俺は叫び声を上げ、懐中電灯を落とした。車内は真っ暗になり、先輩の悲鳴と俺の叫び声が響いた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。次に気づいた時、俺はトラックの外にいた。雪の上に倒れ、身体は凍りつくほど冷たかった。なのに、なぜか動けた。辺りを見回すと、先輩の姿はなく、トラックも見当たらない。吹雪は止み、月明かりが雪を照らしていた。俺は立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。どこへ行くのか、自分でも分からなかった。
すると、遠くに人影が見えた。女だ。あの窓の外にいた女。彼女は背を向けて立ち、ゆっくりと振り返った。彼女の顔を見た瞬間、俺の心臓は止まりそうになった。彼女の顔は、俺の姉貴にそっくりだった。姉貴は3年前、登山中に遭難して死んだはずだ。なのに、彼女は笑いながら俺に手招きした。「こっち…おいで…」
俺は逃げようとしたが、足が動かない。身体が勝手に彼女の方へ進んでいく。彼女の笑顔はどんどん歪み、口が耳まで裂け、目が血で滲んだ。俺は叫びながら抵抗したが、彼女の手が俺の腕を掴んだ。その冷たさは、骨まで凍りつかせた。
次の瞬間、俺は目を開けた。トラックの中にいた。先輩が俺を揺さぶり、「おい!生きてるか!?」と叫んでいた。外は明るくなり、吹雪は止んでいた。助けが来たのだ。俺は放心状態でトラックから引きずり出され、集落の診療所に運ばれた。低体温症で死にかけたが、奇跡的に助かった。
後で聞いた話だが、俺がトラックの外で倒れていたのは本当だったらしい。先輩は俺が突然ドアを開けて外に出たと言ったが、俺にはそんな記憶はない。あの女の顔、姉貴の顔、そしてあの冷たい手…あれは幻覚だったのか?それとも…。
あの山には二度と近づいていない。だが、今でも冬の夜、窓の外でガリガリという音が聞こえる気がする。そして、耳元で囁く声。「…いっしょに…こい…」。俺は毎晩、電気を点けたまま眠るようになった。それでも、恐怖は消えない。
あの山には何かいる。俺を呼ぶ何か。いつか、またあの女が現れるんじゃないかと、俺は今でも怯えている。