霧隠れの鬼火

妖怪

数年前、私は石川県の山奥にある小さな集落に引っ越してきた。そこは能登半島の外れ、深い森と切り立った崖に囲まれた場所だった。集落には古い神社があり、村人たちはその神社の祭りを大切にしていた。都会の喧騒から離れ、静かな生活を求めて移り住んだ私にとって、その素朴な暮らしは新鮮だったが、どこか不気味な空気を感じていた。

ある晩、仕事で遅くなり、山道を車で帰宅していた。時刻はすでに深夜を過ぎ、霧が濃く立ち込めていた。ヘッドライトの光が霧に飲み込まれ、視界は数メートル先までしか届かない。私は慎重にハンドルを握り、細い山道を進んだ。ラジオの音も途切れ、静寂が車内を支配していた。すると、突然、道の脇に小さな光が揺れているのが見えた。まるで誰かが提灯を持っているかのように、ふわふわと浮かんでいた。

「こんな時間に誰が?」

私は不思議に思い、車を少し減速させた。光はゆっくりと動いているようだったが、近づいてもその正体はわからなかった。人の気配はなく、ただその光だけが闇の中で揺れていた。気味が悪くなり、アクセルを踏んでその場を離れようとした瞬間、車のエンジンが突然止まった。ヘッドライトも消え、真っ暗な闇に包まれた。

「何だ、これは…」

焦りながらエンジンをかけ直そうとしたが、スターターはうんともすんとも言わない。冷や汗が背中を伝う中、窓の外を見ると、あの光が近づいてきていた。光は一つではなく、複数に増えていた。赤や青、緑の小さな光が、まるで意志を持ったように車を取り囲むように漂っていた。私は恐怖で体が硬直した。光の一つが窓に近づき、ガラス越しにこちらを覗き込むように揺れた。その瞬間、かすかな囁き声が聞こえた。

「…おいで…ここへ…」

声は低く、まるで地の底から響いてくるようだった。心臓が早鐘を打ち、息が詰まった。私は必死にドアをロックし、窓から目を離さないようにした。すると、光の一つがガラスにぴたりと張り付き、じわじわと車内に侵入してくるように見えた。光の中には、ぼんやりとした人影のようなものが浮かんでいた。目も鼻も口もない、ただ黒い輪郭のようなものが、私を見つめている気がした。

「見ずにはいられない…」

その囁きが頭の中で反響し、私は思わず目をそらした。すると、車内が急に冷え込み、息が白く凍った。背後で何かが動く気配がした。振り返るのが怖かったが、意を決して後部座席を見ると、そこには誰もいないはずなのに、座席のクッションがゆっくりと沈み込むのが見えた。まるで誰かが座ったように。

「やめろ…来るな…!」

私は叫びながら、必死にエンジンをかけ直した。何度目かの試みで、ようやくエンジンが唸りを上げ、ヘッドライトが再び点灯した。光たちは一瞬で霧の中に消え、囁き声も止んだ。私は全身が震えながら、アクセルを踏み込み、集落の自宅へと急いだ。

翌日、村の古老にその話をすると、彼の顔が曇った。「あんた、あの道で鬼火を見たんだな…」と彼は言った。古老によると、その山道は昔、戦で死んだ者たちの魂が彷徨う場所だという。特に霧の深い夜には、鬼火となって現れ、道行く者を惑わすのだと。かつて、その光に導かれて森の奥に入った者たちは二度と戻ってこなかったという。

「でも、あんたが無事だったのは幸いだ。鬼火に見つめられた者は、普通なら正気を失うか、連れ去られる。あんた、強い心を持ってるんだな」と、古老は笑ったが、その目はどこか遠くを見ていた。

それ以来、私はその山道を夜に通ることを避けている。だが、時折、家の窓から遠くの山を見ると、霧の中に揺れる小さな光が見えることがある。それはまるで、私を呼んでいるようだった。ある夜、とうとう我慢できず、窓辺に立ってその光を見つめた。すると、遠くからあの囁きが再び聞こえてきた。

「おいで…おいで…ここは安らげるよ…」

私は慌ててカーテンを閉め、電気を点けたまま朝まで震えていた。あの光が何だったのか、今もわからない。だが、あの山道を通るたびに、背筋に冷たいものが走る。霧の夜には特に、車を止めることなく、ただ前だけを見て走り抜けるようにしている。村の古老が言った言葉が、頭から離れない。

「鬼火はな、魂を喰らうんだ。気をつけなよ。次は逃がしてくれねえかもしれないぜ。」

今でも、霧が濃い夜には、あの光がどこかで私を待っている気がしてならない。もしかしたら、あの囁きは私の心の奥底にまだ残っていて、いつかその誘いに負けてしまうのではないか。そんな恐怖が、私の日常を静かに侵食している。

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