私は愛媛県の山間部にある小さな町に住む会社員だ。普段は平凡な生活を送っているが、去年の夏、忘れられない恐怖体験をした。あの夜のことを思い出すたびに、今でも背筋が凍る。
その日、仕事で遅くなり、帰宅は深夜を回っていた。私の住む町は山に囲まれ、街灯も少ない。車で帰る途中、いつものルートが工事中で通行止めになっていた。仕方なく、普段使わない旧道を通ることにした。その道には、地元でもあまり知られていない古いトンネルがある。名前は知られていないが、子供の頃、近所の大人たちが「あのトンネルには近づくな」と囁いていたのを覚えている。理由を聞いても、誰もはっきりとは教えてくれなかった。
トンネルに差し掛かったのは、時計が午前2時を少し過ぎた頃だった。車内のラジオは雑音ばかりで、音楽も途切れがちだった。トンネルの入り口は苔むしたコンクリートで覆われ、まるで時間が止まったような雰囲気だった。ヘッドライトがトンネル内の暗闇を切り裂くが、奥はまるで光を吸い込むように黒く沈んでいた。少し気味が悪かったが、早く家に帰りたかった私はアクセルを踏んだ。
トンネルの中は予想以上に長く、車が一台やっと通れるほどの幅しかなかった。壁にはひび割れや水滴が光り、時折、ポタポタと水の落ちる音が響いた。静寂の中、エンジン音だけがこだまする。すると、突然、車の後部座席から小さな音が聞こえた。カサッ、という、誰かが動いたような音だ。背後を確認したが、もちろん誰もいない。疲れているせいだ、と思い直し、運転に集中しようとした。
だが、その直後、今度ははっきりと声が聞こえた。「…ねえ。」
女の声だった。低く、掠れた声。心臓が跳ね上がり、思わずブレーキを踏んだ。車が急停止し、ヘッドライトがトンネルの壁を照らす中、私は振り返った。後部座席は空っぽだ。だが、確かに声がした。錯覚ではない。冷や汗が背中を伝う。急いで車を発進させ、トンネルを抜けようとしたが、なぜかエンジンがかからない。何度試しても、キュルキュルと空回りするだけだ。
パニックになりながら、携帯を取り出して助けを呼ぼうとしたが、電波は圏外だった。トンネルの外では繋がっていたはずなのに、ここでは完全に遮断されている。焦りが募る中、またあの声が聞こえた。「…ここにいるよ。」
今度はすぐ近く、まるで助手席から囁かれたような距離だった。反射的に横を見たが、誰もいない。なのに、首筋に冷たい息がかかるような感覚があった。恐怖で体が震え、声も出なかった。どうにかしてここから逃げなければ。そう思った瞬間、車のフロントガラスに何かが見えた。
トンネルの奥、ヘッドライトの光が届くか届かないかの場所に、ぼんやりとした人影が立っていた。長い髪、ぼろぼろの白い服。女だ。顔は暗くて見えないが、こちらをじっと見つめている気がした。その瞬間、車内の空気が急に重くなり、息苦しくなった。まるで誰かに首を絞められているようだった。
必死でエンジンをかけ直すと、ようやく車が動き出した。私はアクセルを全開にし、トンネルを抜けようとした。だが、女の姿はどんどん近づいてくる。いや、近づいているのではなく、まるで車に合わせて移動しているようだった。ヘッドライトが女を照らすたび、彼女の姿が少しずつはっきりしていく。顔は青白く、目は黒い穴のようだった。口元が不自然に裂け、笑っているように見えた。
「やめて! やめて!」私は叫びながらハンドルを握りしめた。トンネルの出口が見えた瞬間、女の姿が消えた。車がトンネルを抜けると、急に空気が軽くなり、息ができるようになった。後ろを振り返っても、誰もいない。ただ、車内にはまだあの冷たい気配が残っている気がした。
家に着いたのはそれから30分後。全身汗だくで、鏡を見ると顔が真っ青だった。その夜は眠れず、翌日、近所のお年寄りにトンネルのことを聞いてみた。すると、彼女は顔を曇らせ、こう教えてくれた。
「あのトンネルは、昔、事故で亡くなった女の霊が出るって言われとるよ。夜中に通ると、車に乗ってくるって…。」
彼女の話によると、数十年前、そのトンネルで若い女性が事故で亡くなり、以来、夜中にそこを通る人を引きずり込もうとするのだという。地元では知られた話らしいが、最近は使う人も少ないため、噂も薄れていた。私はその話を聞いて、ぞっとした。あの夜、確かに何かを感じた。いや、感じただけではない。彼女はそこにいた。
それ以来、私は二度とあのトンネルには近づいていない。だが、時折、夜中に目を覚ますと、あの掠れた声が耳元で響く気がする。「…ここにいるよ。」
今でも、車を運転していると、バックミラーに何か映るのではないかと怖くなる。あのトンネルを通ったのは一夜だけだったが、彼女の視線は今も私を追っているのかもしれない。