鳴門の渦に響く声

実話風

数年前、徳島県の鳴門市に住む私は、大学の友人たちと夏の旅行を計画していた。目的地は鳴門の渦潮。観光名所として有名だが、地元では「渦の底には何かいる」と囁かれる場所でもあった。私はそんな話を笑いものだとばかり思っていた。

私たちは四人グループだった。リーダー格の陽気な男、いつも冷静な理系男子、霊感があると自称する女の子、そして私。夏の終わりの週末、車を借りて鳴門大橋に向かった。昼間は観光客で賑わう展望台も、夕暮れになると人影がまばらになる。私たちは地元の知り合いから「夜の渦潮は別物だ」と聞き、好奇心から日没後の時間を選んだ。

鳴門大橋の下、渦潮が見える展望スポットに到着したのは午後七時頃。空は茜色に染まり、海面は不気味なほど静かだった。渦潮は昼間のような勢いはなく、まるで何かを待つようにゆらゆらと揺れている。風が冷たく、背筋に寒気が走った。霊感があると自称する女の子が「ここ、なんか変な感じするね」と呟いたが、陽気な男は「そんなの気のせいだろ!」と笑い飛ばした。

私たちは展望台の柵にもたれ、渦潮を眺めながら他愛もない話をしていた。すると、突然、理系男子が「静かにしろ」と鋭い声を出した。彼の視線は海面に固定されている。私たちもつられて海を見た。そこには、渦の中心に何か黒い影が浮かんでいるように見えた。最初は流木か何かだと思ったが、影はゆっくりと動いている。まるで泳いでいるように。

「なんだあれ?」陽気な男が声を上げた瞬間、女の子が小さな悲鳴を上げた。「見ないで! あれ、絶対ヤバいよ!」彼女の手は震え、顔は真っ青だった。私は半信半疑だったが、確かにその影は不自然だった。人間の形をしているのに、動きがどこかぎこちない。波に揺られるというより、波を操っているようにすら見えた。

理系男子がスマホを取り出し、影を撮影しようとした。その瞬間、海から低い唸り声のような音が響いた。風の音とも、波の音とも違う、まるで誰かが苦しげに呻いているような声だった。私たちの足はすくみ、誰も動けなくなった。女の子は泣き出し、「帰ろう、早く帰ろう」と繰り返した。陽気な男もいつもの調子を失い、青ざめた顔で「マジでやばいな」と呟いた。

私はその場を離れようとしたが、なぜか体が動かなかった。視線が渦の中心に吸い寄せられる。黒い影は少しずつ大きくなり、渦の中心で何かをしているように見えた。すると、突然、影がこちらを向いた。顔はなかった。目も鼻も口もない、ただの黒い輪郭が、じっと私たちを見つめている。心臓が止まりそうだった。その瞬間、女の子の叫び声が響き、私は我に返った。

「走れ!」理系男子が叫び、私たちは一目散に車に逃げ込んだ。エンジンをかけ、猛スピードでその場を離れた。車内は重い沈黙に包まれ、誰も口を開かなかった。後部座席の女の子は震えながら「絶対にあれ、人間じゃなかった」と呟いた。陽気な男は「冗談だろ? な?」と強がったが、声は震えていた。

その夜、私たちは市内のビジネスホテルに泊まったが、誰も眠れなかった。女の子は「渦の底から声が聞こえた」と言い、理系男子は「撮影した動画を確認する勇気がない」と漏らした。私はあの黒い影のことを考えるたび、胸が締め付けられるような恐怖に襲われた。

翌朝、理系男子が意を決して動画を確認した。だが、撮影された映像には渦潮しか映っていなかった。黒い影も、唸り声も、まるで最初から存在しなかったかのように。しかし、私たちの記憶には、あの影がはっきりと刻まれていた。

それから数日後、地元の古老から話を聞く機会があった。古老は静かにこう語った。「鳴門の渦は昔から神聖な場所だ。だが、時折、渦の底から『何か』が這い出てくる。見ず知らずの者を引きずり込むために」その話を聞いた瞬間、背筋が凍った。あの夜、もし私たちがもう少し長くそこにいたら、どうなっていたのだろう。

それ以来、私は鳴門の渦潮には近づいていない。だが、時折、夢の中であの黒い影が現れる。顔のないその影は、じっと私を見つめ、まるでこう囁いているようだ。「またおいで」と。

数年が経ち、友人たちとはあの夜の話をすることはなくなった。だが、誰もがあの体験を忘れられない。陽気な男は酒を飲むたびに「俺、あの夜から海が怖くなった」と漏らし、女の子は霊感の話をするのをやめた。理系男子はあの動画を消去したが、「二度とあんな場所には行かない」と誓った。

徳島の夏は今も変わらず暑い。鳴門の渦潮は観光客で賑わい、誰もがその美しさに感動する。だが、私は知っている。あの渦の底には、何かが潜んでいることを。そして、それはいつかまた、誰かを呼ぶだろう。

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