闇に響く子守唄

実話風

今から数十年前、岐阜県の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、深い森に囲まれ、夜になると霧が谷間を這うように広がる場所だった。集落の名は知る人ぞ知る程度で、外部との交流はほとんどなく、住民たちは古くからのしきたりを守りながら、静かな暮らしを営んでいた。

その集落に住む若い夫婦がいた。夫は山仕事を生業とし、妻は小さな畑を耕しながら幼い娘を育てていた。娘はまだ三歳で、くりっとした目と無邪気な笑顔が愛らしい子だった。夫婦は貧しかったが、慎ましく幸せな日々を送っていた。

ある夏の夜、集落の外れにある古い社で、年に一度の祭りが開かれた。山の神を鎮めるための儀式で、住民たちは火を囲み、太鼓を叩き、古い子守唄を歌いながら神を迎える。この子守唄は、どこかもの悲しく、聞く者の心に奇妙なざわめきを残すメロディだった。夫は山仕事で疲れ果てていたため、妻と娘だけで祭りに参加した。

妻は娘の手を握り、社の周りに集まった人々の中に混じった。火の揺らめきが闇を照らし、太鼓の音が山にこだまする中、子守唄が響き始めた。「ねんねこ、ねんねこ、山の子よ…」歌声は低く、まるで森そのものが歌っているかのようだった。娘は最初、興味津々に周りを見回していたが、やがて眠そうに目をこすり始めた。妻は娘を抱き上げ、肩に担うようにして歌を聞きながら揺らしていた。

祭りが終わり、妻は娘を背負って家路についた。夜の山道は静かで、虫の声と時折響く鳥の遠吠えだけが聞こえた。妻は娘の小さな寝息を感じながら、足早に家を目指した。だが、途中で何か異変に気づいた。背中に感じる娘の重みが、どこか軽い。振り返ると、娘はしっかりと背中にいる。なのに、なぜかその存在が薄い気がした。妻は不安を振り払い、急いで家にたどり着いた。

家に着くと、妻は娘を布団に下ろし、そっと頬を撫でた。娘はぐっすり眠っているようだったが、その顔はいつもより青白く、まるで人形のようだった。妻は疲れているせいだと自分を納得させ、その夜は夫の隣で眠りについた。

翌朝、妻が目を覚ますと、娘の布団が空だった。慌てて家の中を探したが、どこにもいない。夫と共に集落中を探し回り、近隣の家にも尋ねたが、誰も娘を見ていないと言った。妻の胸に冷たい恐怖が広がった。昨夜の祭りでの出来事が頭をよぎる。あの子守唄、火の揺らめき、そして娘の軽い感触…。

集落の古老に相談すると、顔を曇らせながらこう言った。「あの社の子守唄は、ただの歌じゃない。山の神に子を捧げるためのものだ。昔、飢饉や疫病が起きた時、集落は子を神に差し出して救いを求めた。その名残が今も祭りに残っている。」妻は震えながら尋ねた。「それなら、うちの子は…?」古老は目を伏せ、「山に呼ばれた子は、戻らない」とだけ答えた。

それから夫婦は必死に娘を探した。山に入り、社の周りを何度も調べ、夜通し娘の名を呼び続けた。だが、娘の姿はどこにもなかった。ただ、ある夜、夫が山の奥で小さな足跡を見つけた。それは娘のものと同じ大きさだったが、足跡は途中でふっと消え、まるでそこから空に吸い込まれたかのようだった。

数日後、集落の者が社の裏で奇妙なものを見つけた。娘が祭りの夜に着ていた小さな着物が、木の根元に丁寧に畳まれて置かれていた。だが、着物の下には何もなく、ただ土が湿っているだけだった。妻は着物を手に取り、嗚咽を漏らした。夫は妻を抱きしめながら、ただ黙って涙を流した。

それから数年、夫婦は集落を離れた。娘を失った悲しみは癒えることなく、妻は夜ごとに子守唄のメロディを夢に見た。ある時、妻は夢の中で娘の声を聞いた。「お母さん、山は冷たいよ。でも、怖くないよ。」その声は、確かに娘のものだったが、どこか遠く、深い森の奥から響いてくるようだった。

集落はその後もひっそりと存続したが、祭りは次第に廃れ、子守唄を歌う者もいなくなった。だが、年老いた住民たちの間では、こう囁かれている。霧深い夜、山の奥で子守唄が聞こえることがある。それは、かつて神に捧げられた子たちの声が、風に乗って彷徨っているのだと。

今でも、岐阜の山奥を通る者は、夜道で妙な歌声に耳を澄ますことがあるという。だが、その歌を最後まで聞いてはいけない。なぜなら、歌の終わりに自分の名を呼ばれるかもしれないからだ。

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