大阪府の郊外、雑木林に囲まれた寂れた県道沿いに、ひっそりと佇む古い病院があった。
誰もがその存在を知っているのに、誰も近づかない。
地元の者なら誰しも、子供の頃に親から「夜にあそこには行くな」ときつく言われた記憶があるはずだ。
その病院は、いつ建てられたのか、いつ廃墟になったのか、誰も正確には知らない。
ただ、噂だけが一人歩きしていた。
「夜になると、誰もいない病室で電気が点く」
「窓から白い影が覗く」
「中に入った者は二度と出てこない」
そんな話が、まるで都市伝説のように語り継がれていた。
私には、その噂を笑いものだと考える癖があった。
二十歳を過ぎた頃には、子供の頃に聞いた怪談なんて、ただの作り話だと信じていた。
だから、あの夜、友人の一人が「肝試しに行こうぜ」と言い出した時も、軽い気持ちで乗ってしまった。
メンバーは私を含めて四人。
運転手の男、冗談ばかり言う陽気な女、そして少し気弱そうなもう一人の男。
私たちは、夜の十一時過ぎ、懐中電灯とスマホだけを持って、その廃墟へと向かった。
車を県道の脇に停め、雑草が生い茂る小道を進む。
月明かりが薄く地面を照らす中、遠くに病院のシルエットが見えてきた。
コンクリートの外壁はひび割れ、窓ガラスはほとんどが割れている。
蔦が絡まる建物は、まるで生き物のように息を潜めているようだった。
「やば、めっちゃ雰囲気あるな!」
陽気な女が笑いながら言うが、その声はどこか上ずっている。
気弱な男はすでに黙り込み、懐中電灯を握る手が震えていた。
正面の入り口は板で塞がれていたが、横の非常口のドアは半開きになっていた。
錆びた蝶番が軋む音を立て、ドアを押すと、冷たく湿った空気が鼻をついた。
中は真っ暗で、懐中電灯の光が届く範囲しか見えない。
床には剥がれたリノリウム、壁にはカビの染み。
ところどころに、錆びた医療器具や散乱した書類が落ちている。
「ここ、ほんまに病院やったんやな…」
運転手の男が呟く。
その声が、静寂の中で不自然に響いた。
一階の廊下を進む。
懐中電灯の光が、病室のドアや古い案内板を照らし出す。
どの部屋も荒れ果て、ベッドのフレームや点滴スタンドが無造作に放置されている。
「なんか、変な匂いせえへん?」
陽気な女が鼻を押さえながら言う。
確かに、消毒液のような、しかしどこか腐臭を混ぜたような匂いが漂っていた。
私は冗談めかして「幽霊の匂いやろ」と笑ったが、誰も笑わなかった。
二階へ続く階段を見つけた。
手すりは錆びつき、階段のコンクリートはひび割れている。
「上、行く?」
運転手の男が皆の顔を見る。
気弱な男は首を振ったが、陽気な女が「ここまで来て戻るん? つまらんやん!」と煽る。
結局、多数決で二階へ行くことになった。
階段を登るたび、足音が反響し、まるで誰かが後ろからついてくるような錯覚に陥る。
二階の廊下は一階よりも暗く、窓が少ないせいか、空気がより重く感じられた。
ふと、気弱な男が立ち止まった。
「…なんか、聞こえへん?」
皆、耳を澄ます。
最初は何も聞こえなかったが、じっとしていると、遠くから微かな音が聞こえてきた。
カタ…カタ…カタ…
何か硬いものが、規則的に床を叩く音。
「なんやこれ…?」
陽気な女の声が震える。
音は、廊下の奥、暗闇の向こうから聞こえてくる。
懐中電灯を向けても、光は闇に吸い込まれるように届かない。
「ネズミとかやろ、気にせんとこ」
運転手の男が強がって言うが、その顔は青ざめていた。
それでも、私たちは進んだ。
好奇心と、引き返すことへの恐怖が混ざり合った、妙な衝動に駆られていた。
音は次第に大きくなり、カタ…カタ…というリズムが、まるで私たちの足音に合わせているかのようだった。
そして、ある病室の前で、音がぴたりと止まった。
その部屋のドアは、他の部屋と違い、半開きになっている。
懐中電灯の光を向けると、ドアの隙間から、薄暗い室内が見えた。
そこには、古い車椅子がポツンと置かれていた。
「…あれ、動いた?」
気弱な男が小さな声で呟く。
皆、車椅子を見つめる。
確かに、ほんの一瞬、車輪が微かに揺れたように見えた。
「風やろ、風」
運転手の男が慌てて言うが、窓は全て閉まっている。
その時、陽気な女が悲鳴を上げた。
「なんかおる! あそこ!」
彼女が指差す先、部屋の奥の暗闇に、白い人影のようなものが一瞬だけ見えた。
次の瞬間、車椅子の車輪が、キキッと音を立てて動き出した。
私たちは一斉に叫び、階段に向かって走り出した。
懐中電灯の光が揺れ、廊下の闇がまるで生き物のように迫ってくる。
背後から、カタ…カタ…という音が再び聞こえ、今度は明らかに近づいてくる。
階段を駆け下り、一階の廊下を走る。
非常口のドアが見えた瞬間、気弱な男がつまずいて転んだ。
「待って! 助けて!」
彼の叫び声が響く。
私たちは振り返ったが、その瞬間、懐中電灯の光が消えた。
真っ暗闇の中、気弱な男の声が途切れた。
代わりに、耳元で囁くような声が聞こえた。
「…ここに…いる…」
その声は、まるで私の頭の中に直接響くようだった。
パニックになりながらも、なんとか非常口にたどり着き、外に飛び出した。
月明かりの下、運転手の男と陽気な女の顔が、恐怖で歪んでいるのが見えた。
だが、気弱な男の姿はなかった。
私たちは車に飛び乗り、エンジンをかけた。
「彼、どこ!?」
陽気な女が泣きながら叫ぶ。
「戻れへん! もう無理や!」
運転手の男が叫び返し、車は急発進した。
後部座席から振り返ると、病院の窓の一つに、白い人影が立っているのが見えた。
その影は、じっと私たちを見つめているようだった。
翌日、私たちは警察に連絡した。
気弱な男の行方を捜してもらうためだ。
だが、警察が病院を調べた結果、誰もいなかった。
ただ、車椅子が、昨夜とは違う場所に移動していたという。
それ以来、私たちはあの夜のことを口にしない。
だが、時折、夜中にカタ…カタ…という音が耳に響くことがある。
そして、どこからともなく、あの囁きが聞こえる。
「…ここに…いる…」
大阪のあの廃墟は、今もそこに佇んでいる。
誰かがまた、好奇心に駆られて中に入るかもしれない。
だが、もしあなたがその場所を知ったとしても、決して近づかないでほしい。
あの病院は、ただの廃墟ではない。
何か、得体の知れないものが、そこに住み着いているのだから。