霧の向こうの異界の門

ホラー

それは今から10年ほど前、2015年の夏の終わりだった。

山梨県の山間部、甲府盆地の外れにひっそりと佇む小さな集落に、私は友人の結婚式に招かれて訪れていた。集落は古い神社を中心に広がり、鬱蒼とした森に囲まれていた。空気はどこか重く、湿った土と苔の匂いが鼻をついた。地元の人々は温かかったが、どこか遠い目をして話すことが多く、よそ者の私には何か違和感があった。

結婚式は神社の境内で執り行われた。夕暮れ時、提灯の明かりが揺れる中、新郎新婦の笑顔が印象的だった。しかし、式の最中にふと気づいた。参列者の中に、一人の老女がいた。彼女は他の参列者と少し離れて立ち、じっと私を見つめていた。白髪が乱れ、顔には深い皺が刻まれていたが、その目は異様に鋭く、まるで私の心の奥底を見透かすようだった。私は気味が悪くなり、視線を逸らした。

式が終わり、宴が始まると、彼女の姿は消えていた。ほっとしたのも束の間、宴の途中、友人の一人が「今夜は霧が濃いな」とつぶやいた。確かに、窓の外を見ると、集落全体が白い霧に包まれていた。まるで世界が切り取られたかのように、遠くの山の稜線すら見えなかった。私は少し酔っていたこともあり、気には留めなかった。

宴が終わり、宿泊先の民宿に向かうため、集落の細い道を歩いていた。友人数人と一緒だったが、霧はますます濃くなり、提灯の明かりすらぼんやりとしか見えない。道の両側には古い家々が並び、どの家もひっそりとしていた。すると、突然、背後から低い声が聞こえた。

「そっちに行っちゃいけないよ。」

振り返ると、誰もいない。友人も私の異変に気づき、「どうした?」と聞いてきたが、気のせいだと笑い飛ばした。しかし、心のどこかでざわめきが収まらなかった。道を進むうちに、霧の中にぼんやりとした人影が見えた。さっきの老女だった。彼女は道の先に立ち、じっとこちらを見ていた。今度ははっきりと、彼女の口が動いた。

「門が開くよ。戻りな。」

その瞬間、背筋に冷たいものが走った。友人も彼女の姿に気づき、顔を見合わせた。誰かが「ただの地元のおばあさんだろ」と笑ったが、声は震えていた。私たちは急いで民宿に向かったが、背後から何かしらの視線を感じ続けた。

民宿に着いたとき、時計はすでに深夜を回っていた。部屋に落ち着くと、窓の外の霧はさらに濃くなっていた。まるで生き物のように窓に張り付き、ガラスを這うようだった。私は疲れていたが、眠る気にはなれなかった。すると、部屋の外からかすかな足音が聞こえてきた。畳を踏む、ゆっくりとした足音。誰かが廊下を歩いている。友人はすでに鼾をかいて寝ていた。私は勇気を振り絞り、襖をそっと開けた。

廊下には誰もいなかった。しかし、足音は続いていた。まるで民宿の奥、暗い階段の方から聞こえてくるようだった。好奇心と恐怖がせめぎ合い、結局、私は懐中電灯を手に階段の方へ向かった。階段を下りると、裏口の扉が少し開いていた。そこから冷たい風が吹き込み、霧が部屋に流れ込んでいた。

外に出ると、霧はまるで壁のように立ちはだかっていた。懐中電灯の光すら飲み込むような濃さだった。それでも、私は何か引き寄せられるように歩き出した。集落の外れ、森の入り口に差し掛かると、突然、目の前に石の鳥居が現れた。神社のものとは違う、苔むした古い鳥居だった。こんな場所に鳥居があるなんて、誰も話していなかった。

鳥居の向こうは、さらに深い霧に覆われていた。すると、霧の中からあの老女が現れた。彼女は私に近づき、囁くように言った。

「門が開いた。入れば、戻れないよ。」

私は凍りついた。彼女の声は人間のものとは思えないほど低く、響くようだった。鳥居の向こうを見ると、霧が渦を巻き、まるで何か別の世界に繋がっているかのようだった。そこには、ぼんやりとした光と、人のような影が揺れていた。影は私を呼ぶように手を振っているように見えたが、その動きはどこか不自然で、まるで人間ではない何かのようだった。

恐怖が全身を支配した。私は後ずさりし、必死で民宿に戻った。裏口を閉め、鍵をかけ、部屋に戻ると、友人はまだ寝ていた。私は震えながら布団に潜り込み、朝を待った。

翌朝、霧は晴れていた。集落はいつも通りの静かな朝を迎えていた。私は昨夜のことを友人に話したが、誰も鳥居の存在を知らなかった。地元の人に聞いても、「そんな鳥居はない」と笑われた。しかし、老女のことは誰も知らないと言い、話をそらすようにして去っていった。

私はその日、急いで集落を後にした。帰りの車の中で、ふとバックミラーを見ると、遠くの森の端に、あの鳥居が一瞬だけ見えた気がした。だが、すぐに霧が立ち込め、視界から消えた。

それから10年、私はあの集落には二度と近づいていない。だが、時折、夢の中であの老女の声が聞こえる。「門はまだ開いているよ」と。毎回、目が覚めると、背筋が凍るような恐怖に襲われる。あの鳥居の向こうには、一体何があったのか。今でも考えるだけで、身体が震える。もしかしたら、私はあの夜、異世界の入口に立っていたのかもしれない。

そして、今この話を書いている瞬間も、窓の外に霧が立ち込めている気がしてならない。

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