祇園の闇に潜む影

モンスターホラー

京都の夏は蒸し暑い。2015年の夏、祇園の路地裏にある小さなバーで働く私は、その夜、いつもと違う空気を感じていた。店は古い町家を改装したもので、木の梁からは時折、軋む音が響く。常連客がぽつぽつと訪れるだけの静かな夜だったが、時計の針が深夜2時を回った頃、店の扉がゆっくりと開いた。

入ってきたのは、背の高い男だった。黒いスーツに身を包み、顔はどこか不自然に青白い。カウンターに腰掛けると、彼は一言も発せず、ただじっと私を見つめた。その視線は、まるで私の心の奥底を覗き込むようで、背筋に冷たいものが走った。「何にしますか?」と声をかけると、彼は低く、掠れた声で「水でいい」と答えた。グラスに水を注ぎながら、私は彼の手が異様に細長く、指の関節が不自然に多いことに気づいた。まるで人間のものではないような。

男は水を一口も飲まず、ただ黙って座っていた。店の空気が重くなり、他の客もそそくさと帰り始めた。常連の老人が帰り際に私の耳元で囁いた。「あの男、気をつけな。祇園の夜には、人の形をした『何か』が出るって話だよ」。私は笑って流したが、胸のざわつきは収まらなかった。

男が店を出たのは、閉店間際の3時過ぎ。扉が閉まる音がやけに大きく響き、店内は急に静寂に包まれた。片付けを終え、店を閉めようと外に出ると、路地の奥に男の姿が見えた。いや、姿と呼ぶにはあまりにも異様だった。街灯の光の下で、彼の影が揺れている。だが、その影は人間の形をしておらず、まるで無数の手足が蠢くような、不定形な黒い塊だった。私は息を呑み、急いで店に戻り鍵をかけた。

翌日、常連の老人にその話をすると、彼は顔を曇らせた。「それは『祇園の影』だ。昔からこの辺りで囁かれてる話さ。人の形を借りて現れるけど、正体は誰も知らない。見つめられると、魂を抜かれるって言うんだ」。私は半信半疑だったが、その夜から奇妙なことが続いた。店の梁から聞こえる軋み音が、まるで誰かが歩くような足音に変わり、閉店後の店内で誰かが囁くような声が聞こえるようになった。鏡に映る自分の顔が、時折、知らない誰かの顔に見えることもあった。

数日後、店の裏庭で古い井戸を見つけた。普段は板で蓋をされていたが、その日はなぜか板が外れ、黒々とした水面が覗いていた。覗き込むと、水面に映るのは私の顔ではなく、あの男の青白い顔だった。目が合った瞬間、井戸の底から無数の手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。冷たく、ぬめった感触に悲鳴を上げ、必死にもがいて逃れたが、腕には赤黒い痣が残った。

それからというもの、私は毎夜、夢の中であの男に追いかけられるようになった。夢の中の彼は、人の形を捨て、黒い霧のような姿で迫ってくる。逃げても逃げても、どこまでも追いかけてくるのだ。ある夜、夢の中で彼が言った。「お前はもう俺の一部だ」。その声は、私の頭の中で直接響くようだった。

恐怖に耐えかね、私は店を辞めた。だが、引っ越した先でも、夜になると窓の外に黒い影が揺れるのを見た。カーテンを閉めても、影はガラス越しに私の動きを追うように動く。ある晩、ついに我慢できず、影に向かって叫んだ。「何だよ!何が欲しいんだ!」すると、窓の外から低く、掠れた声が聞こえた。「お前の全てだ」。

私は京都を離れた。遠く離れた街で新しい生活を始めたが、夜になると今でもあの影が現れることがある。電灯が消えた瞬間、部屋の隅に黒い塊が蠢く。鏡を見ると、時折、自分の瞳の奥にあの男の青白い顔が浮かぶ。私はもう、あの祇園の夜から逃れられないのかもしれない。

今でも祇園の路地裏を通る人々は、深夜に不気味な影を見ることがあるという。人の形をした『何か』が、静かに獲物を探しているのだ。もし、祇園の夜に青白い男を見かけたら、決して目を合わせないでほしい。一度見つめられると、あなたもまた、彼の一部になってしまうから。

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