数年前の夏、新潟県の山間部にある小さな集落に、俺は引っ越してきた。都会の喧騒に疲れ、自然に囲まれた静かな暮らしを求めての移住だった。集落は古い木造家屋が点在し、背後には深い森と、底の見えない沼が広がっていた。地元の人々は親切だったが、どこかよそよそしく、特に沼については誰も多くを語らなかった。
その沼は、集落の外れにひっそりと佇んでいた。昼間でも薄暗く、水面はまるで黒い鏡のように光を反射しない。初めて見たとき、なぜか胸がざわついた。地元の老人に沼について尋ねると、彼は目を逸らし、「近づかない方がいい」とだけ呟いた。その口調には、ただの忠告を超えた何かがあった。
俺の家は集落の端にあり、夜になると沼の方から奇妙な音が聞こえてきた。最初は風や動物の声だと思っていたが、だんだんそれが違うと気づいた。低く唸るような、まるで何かが水面下で蠢いているような音。ある夜、懐中電灯を持って沼の近くまで行ってみた。好奇心と、どこか自分を試したい気持ちがあった。
沼の縁に立つと、空気が急に重くなった。懐中電灯の光を水面に当てても、何も映らない。ただ、闇がそこにあるだけだ。ふと、水面がわずかに揺れた。波紋でもない、まるで何かがゆっくりと浮かび上がってくるような動き。俺は息を呑み、後ずさった。その瞬間、低い唸り声が沼の奥から響き、背筋が凍った。
家に戻ってからも、頭からその音が離れなかった。次の日、集落の古老に再び沼のことを尋ねた。彼は渋々口を開いた。「あの沼には、昔から何かいるんだ。人間じゃない。ずっと昔、村に災いをもたらしたものを封じた場所だ。だが、完全に封じることはできなかった。時々、そいつは這い出てくる」。彼の目は恐怖と諦めが入り混じっていた。
それから、俺の日常は少しずつ変わっていった。夜になると、家の窓の外に何かいるような気配を感じるようになった。カーテンの隙間から覗く影、足音ともつかない軋み。ある晩、ついに我慢できず、窓を開けて外を見た。そこには誰もいなかったが、沼の方から赤い光が一瞬だけ瞬いた。まるで、誰かが俺を呼んでいるように。
数日後、集落で異変が起きた。家畜が一夜にして消え、畑が荒らされ、夜中に誰かの叫び声が聞こえたという噂が広がった。俺もまた、毎夜のように悪夢を見た。夢の中で、沼の底から這い出てくるものを見た。それは人間の形をしていたが、皮膚はぬめり、目は白く濁り、口は異様に大きく裂けていた。そいつは俺の名前を呼ぶ。低く、粘つく声で。
ある夜、ついに我慢の限界が来た。沼の謎を解かなければ、この恐怖から逃れられないと思った。懐中電灯とナイフを手に、俺は夜の沼に向かった。月明かりもない闇の中、沼の縁に立ったとき、水面が大きく揺れた。まるで何かが俺を待っていたかのように。突然、水面が割れ、黒い影が飛び出してきた。人間の形をしていたが、関節が不自然に曲がり、動きはまるで爬虫類のようだった。そいつの目は俺をじっと見つめ、口から涎のような液体が滴り落ちていた。
俺は叫び声を上げ、ナイフを振り回したが、そいつは異様な速さで動いた。一瞬で俺の背後に回り、冷たい手が首に触れた。その感触は、まるで腐った魚のようだった。パニックに陥りながらも、俺は必死に逃げ出した。背後から追いかけてくる気配、沼の水が跳ねる音、そいつの唸り声。集落まで全力で走り、家のドアを閉めた瞬間、意識を失った。
目が覚めると、朝だった。全身が汗でびっしょりで、ナイフはまだ手に握られていた。外に出ると、集落は静まり返っていた。まるで何事もなかったかのように。だが、沼の周辺には異様な匂いが漂い、地面には奇妙な足跡が残っていた。人間のものではない、爪のついた、異形の足跡。
その後、俺は集落を離れた。あの沼のことは誰にも話せなかった。都会に戻り、普通の生活を取り戻そうとしたが、夜になるとあの赤い光と、沼の底から響く声が脳裏に蘇る。あの怪物はまだそこにいる。俺を待っている。いつかまた、俺を沼の底に引きずり込むために。
今でも、静かな夜にはあの音が聞こえる気がする。低く、粘つく、俺の名前を呼ぶ声。沼の底から、ずっと。