数年前の冬、北海道の小さな漁村に住む俺は、毎晩のように港近くの倉庫で夜勤のバイトをしていた。村は静かで、冬になると雪に閉ざされて、まるで世界から切り離されたような雰囲気だった。倉庫は古びた木造で、港の冷たい風が隙間から吹き込んでくる。電灯は薄暗く、夜になると波の音と風の唸りが混ざり合って、不気味な音が響く場所だった。
その夜もいつも通り、倉庫の中で荷物の整理をしていた。時計はもうすぐ午前2時。外は吹雪で、視界は真っ白。倉庫の窓から見えるのは、雪に埋もれた漁船と、遠くでぼんやり光る街灯だけだ。いつもなら同僚の男が一緒なんだが、その日は体調を崩して休み。俺一人で倉庫にいた。
作業中、ふと耳に奇妙な音が届いた。カツ、カツ、という硬い足音。最初は風で何か転がってるのかと思った。だが、音は一定のリズムで、まるで誰かが歩いているように聞こえる。倉庫の外をぐるりと囲むように、足音は近づいたり遠ざかったり。試しに窓から外を覗いたが、吹雪がひどくて何も見えない。雪のせいで足跡すら確認できなかった。
「誰かいるのか?」
思わず声を出したが、返事はない。足音だけが続く。カツ、カツ、カツ。だんだん音が近づいてきて、倉庫の入り口の鉄扉に近づく。心臓がドクドクと鳴り始めた。こんな時間に村の人間がこんなところに来るはずがない。鉄扉には錠がかかってるし、鍵は俺が持ってる。誰も入れるわけがないんだ。
でも、足音は止まらない。扉のすぐ外で、カツ、カツ、と響く。まるで誰かが扉の前で立ち止まって、じっとこっちを見ているようだった。俺は息を殺して、扉の小さな覗き窓に近づいた。ガラスは曇っていて、よく見えない。いや、よく見えないはずなのに、向こう側に何か黒い影が立っているように見えた。人間の形…いや、微妙に歪んだ、人の形に似た何か。
「誰だよ!何の用だ!」
叫んだ瞬間、足音がピタリと止まった。静寂が倉庫を包む。波の音も、風の音も、まるで時間が止まったように消えた。俺の背中に冷や汗が流れる。覗き窓に目を近づけると、ガラスの向こうに、ぼんやりと白い顔のようなものが浮かんでいた。目がない。ただ黒い穴が二つ、こっちを向いているような気がした。
ガタン!
突然、鉄扉が大きく揺れた。誰かが、ものすごい力で叩いたんだ。俺は悲鳴を上げて後ずさり、棚に背中をぶつけた。荷物が崩れて床に落ちる音が響く。扉を叩く音は続き、バン!バン!とまるで壊そうとするような勢いだった。俺は震えながら携帯を取り出し、同僚に電話をかけたが、電波が悪くて繋がらない。吹雪のせいだ。
どれくらい時間が経ったのか、叩く音は突然止まった。またあの不気味な静けさが戻ってきた。俺は恐る恐る扉に近づき、覗き窓をもう一度見た。何もいない。影も、顔も、ただ吹雪が舞うだけだ。少し安心したのも束の間、今度は倉庫の奥から、カツ、カツ、という足音が聞こえてきた。
「…え?」
倉庫の中だ。間違いなく、倉庫の奥、荷物の山の向こうから、足音が聞こえる。俺は凍りついた。鍵は俺が持ってる。誰も入れるはずがない。なのに、足音はゆっくり、確実に近づいてくる。カツ、カツ、カツ。まるで俺を追い詰めるように。
懐中電灯を手に持って、奥に光を向けた。光の先には、積み上げられた木箱と古い網の山。だが、その隙間から、黒い影が動くのが見えた。いや、動くというより、揺れている。まるでそこに立っている何かが、俺をじっと見つめているように。
「ふざけんな…何だよ、お前…」
声が震える。光を当て続けると、影がスッと消えた。だが、足音は止まらない。カツ、カツ、カツ。今度は俺の真後ろから聞こえてくる。振り返る勇気なんてなかった。背中に冷たい息がかかるような感覚。首筋に何か湿ったものが触れた気がした。
「やめろ!来るな!」
叫びながら、俺は走り出した。倉庫の出口に向かって、ただひたすら走った。足音は追いかけてくる。カツ、カツ、カツ、まるで俺の走る速さに合わせてくるように。鉄扉にたどり着き、震える手で鍵を開けようとした瞬間、背後でドン!と大きな音がした。振り返ると、倉庫の奥の荷物が一斉に崩れ落ちていた。まるで何か巨大なものが突進してきたように。
鍵を開け、扉を開けて外に飛び出した。吹雪の中、冷たい雪が顔に当たる。振り返ると、倉庫の扉はゆっくり閉まり、ガタンと音を立てた。俺は港の明かりを目指して走った。足が雪に埋もれ、何度も転びそうになりながら、村の小さな交番にたどり着いた。
交番のおっちゃんに事情を話したが、半信半疑の顔だった。それでも、念のため倉庫を見に行ってくれることになった。翌朝、おっちゃんと一緒に倉庫に戻ったが、そこには何の異常もなかった。扉の鍵はしっかりかかっていて、荷物も崩れた様子はない。足跡も、影も、何も残っていなかった。
「吹雪で疲れてたんじゃないか?幻聴ってこともあるぜ」
おっちゃんはそう笑ったが、俺には笑えなかった。あの足音、あの影、絶対に本物だった。俺はその後、倉庫のバイトを辞めた。村に住むのはやめたけど、あの夜のことは今でも夢に見る。カツ、カツ、という足音が、どこからともなく聞こえてくるんだ。
今でも思う。あの影は何だったのか。なぜ俺を追いかけてきたのか。村の古老に後で聞いた話だと、昔、その倉庫の近くで漁師が吹雪の中で遭難し、凍死したことがあったらしい。その男は、死ぬ直前まで、助けを求めて倉庫の扉を叩き続けたという。もしかして、あの夜、俺が聞いたのは…。
今も、雪の降る夜には、あの足音が聞こえる気がして、窓の外を覗くのが怖い。