それは今から10年ほど前、2015年の夏の夜のことだった。
私は大学を卒業したばかりで、就職活動に追われながらも、友人と一緒に東京都内の繁華街で飲んだ帰り道だった。時刻はすでに深夜2時を過ぎ、電車も終わっていたため、友人と別れ、ひとりでタクシーを拾うために大通りへと向かっていた。繁華街の喧騒は遠のき、路地裏に入ると、街灯の薄暗い光だけが私の足元を照らしていた。
その路地は、普段なら気にしないような場所だった。古びたビルが並び、ところどころにシャッターが下りたままの店舗が点在している。風が吹くと、どこからかゴミ袋が擦れる音が聞こえ、妙に静かな空気が漂っていた。私は少し酔っていて、頭がぼんやりしていたが、どこか落ち着かない気分だった。まるで、誰かに見られているような感覚が、背筋を這うように広がっていく。
ふと、路地の奥にひときわ古びたビルが目に入った。5階建てくらいの、コンクリートが剥き出しになったような建物で、窓ガラスはほとんどが割れ、鉄筋が錆びついているのが遠目にもわかった。看板もないそのビルは、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。だが、なぜかそのビルの前に立つと、足がすくむような感覚に襲われた。まるで、そこに近づいてはいけないと、本能が警告しているようだった。
それでも、タクシーを拾うには大通りまで出なければならなかった。私は気を取り直して歩き出したが、その瞬間、背後から「カツン、カツン」という靴音が聞こえてきた。最初は自分の足音が反響しているのだと思った。しかし、立ち止まると、その音も止まる。振り返っても、誰もいない。路地は静かで、街灯の光がアスファルトに細長い影を落としているだけだ。
「気のせいだろ」
自分に言い聞かせて再び歩き出すと、また「カツン、カツン」という音が追いかけてくる。今度は明らかに私の歩調とは違う、リズミカルでゆっくりとした音だった。心臓がドクンと跳ね、冷や汗が背中を伝った。振り返る勇気はなかった。ただ、足を速めてその場を離れようとした。しかし、どれだけ急いでも、靴音は一定の距離を保ちながらついてくる。まるで、私を追い詰めるように、じわじわと近づいてくるのだ。
やがて、さっきの廃ビルの前を通り過ぎる瞬間、靴音が急に止まった。ホッとしたのも束の間、今度はビルの奥から、低い呻き声のようなものが聞こえてきた。人間の声とも、動物の唸り声ともつかない、ぞっとするような音だった。私は立ちすくみ、ビルの方を見ずにはいられなかった。暗闇に沈むビルの窓の一つに、ぼんやりとした白い影が揺れているように見えた。人の形をしているのに、どこか不自然で、まるで輪郭が溶けているような影だった。
「見ちゃいけない」
そう思った瞬間、影がスッと消えた。同時に、背後で再び「カツン、カツン」という靴音が響き、今度は明らかに近づいてくる。私はパニックになり、走り出した。路地の出口まで必死で走り、ようやく大通りに出たとき、靴音はぴたりと止んだ。振り返ると、路地はただ暗く静まり返っているだけだった。タクシーを拾い、急いでその場を離れたが、心臓はまだバクバクと鳴り続けていた。
家に帰ってからも、あの夜のことは頭から離れなかった。気になって、翌日、そのビルのことを調べてみた。ネットで検索しても、具体的な情報はほとんど出てこなかったが、ある掲示板に似たような体験談が書き込まれていた。10年以上前、そのビルで火事が起き、複数の人が亡くなったという。火事の原因はわからず、ビルはそのまま放置されているらしい。投稿者の中には、深夜にそのビルを通ると、靴音や呻き声を聞いたという人が何人もいた。
それ以降、私はあの路地には二度と近づいていない。だが、今でも時折、あの「カツン、カツン」という靴音が耳の奥で響くことがある。まるで、私があのビルに近づいたことを、何かがまだ覚えているかのように。
数年後、友人にこの話をしたとき、彼は笑いながらこう言った。
「そんな怖い話、作り話だろ? でもさ、もし本当なら、お前、運が良かったな。あのビル、取り壊しが決まったって最近聞いたよ」
その言葉に少し安心したが、同時に新たな恐怖が湧き上がった。もし、あのビルが取り壊されたとき、そこにいた「何か」が解放されたら? 私は今でも、夜道を歩くとき、つい背後を確認してしまう。あの靴音が、また聞こえてくるのではないかと。
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