明治の北海道、冬の夜は息を呑むほど冷たく、雪はまるで生き物のように降り積もる。開拓民の集落から少し離れた森の奥に、男は一人で暮らしていた。猟師だった彼は、獣の皮を剥ぎ、肉を切り分け、雪に閉ざされた日々を淡々と生きていた。村人たちは彼を寡黙だが信頼できる男と評し、時折猟で得た肉を分け合う姿に感謝していた。だが、ある冬の夜、村に異変が訪れた。
その夜、村の外れにある古い祠の周りで、奇妙な音が響いた。まるで誰かが雪を踏みしめる音、だが足音にしては不規則で、どこか不気味なリズムを刻んでいた。村人たちは暖炉のそばで身を寄せ合い、音の正体を囁き合った。「あれは獣だ」「いや、風の音だろう」と意見が分かれたが、誰も外に出ようとはしなかった。雪はすでに膝まで積もり、夜の森はまるで別世界のようだった。
猟師は、その音を聞きつけた一人だった。彼は村人たちと違い、恐怖よりも好奇心が勝った。銃を手に、毛皮のコートを羽織り、祠へと向かった。雪は彼の足跡をすぐに消し、まるで彼の存在を森が飲み込むかのようだった。祠に近づくと、音はよりはっきりと聞こえてきた。それは足音ではなく、まるで誰かが地面を叩くような、鈍い響きだった。猟師は息を殺し、祠の裏に回った。そこには何もなかった。ただ、雪の上に不思議な模様が刻まれていた。円形に並んだ小さな穴、まるで誰かが棒で雪を突いたような跡だった。
彼は祠の周りを調べたが、足跡も獣の痕跡も見つからなかった。だが、背筋に冷たいものが走った。振り返ると、遠くの木々の間に、ぼんやりとした人影のようなものが揺れている気がした。銃を構えたが、影はすぐに消えた。風のせいか、それとも疲れか。彼は自分を落ち着かせ、村に戻った。
翌朝、村人たちが祠を訪れると、異様な光景が広がっていた。祠の周りの雪に、昨夜の猟師が見た模様がさらに広がり、まるで何かが這うように複雑な線が描かれていた。村の古老は顔を青ざめ、「これは良くない」と呟いた。彼の話では、この森には古くから「何か」が住んでいるとされ、開拓が始まる前からアイヌの人々がその存在を恐れていたという。祠はそれを封じるためのものだったが、近年、村人たちが祠を顧みなくなったことで、「それ」が目覚めたのかもしれない。
猟師は古老の話を半信半疑で聞きながらも、再び森へ向かった。彼は自分の目で確かめたかった。昼間の森は静かで、雪に覆われた木々はまるで時間が止まったかのように佇んでいた。しかし、祠に近づくにつれ、空気が重くなり、耳鳴りのような音が聞こえ始めた。それはまるで囁き声のようで、言葉にならないが、どこか懇願するような響きがあった。猟師は銃を握りしめ、祠の前に立った。すると、雪の表面がわずかに動いた。まるで何かが雪の下を這うように、表面が波打ったのだ。
彼は思わず後ずさり、銃を構えた。だが、何も出てこなかった。代わりに、背後で木々がざわめき、振り返ると、またあの影が木々の間に揺れていた。今度ははっきりと、人の形をしていた。だが、その姿はどこか歪で、頭が異様に長く、腕が不自然に垂れ下がっていた。猟師は叫び声を上げ、銃を撃った。銃声が森に響き、影は消えた。だが、雪の上には何の痕跡もなかった。まるで影だけが存在していたかのように。
その夜、猟師は村に戻らず、森の小屋に籠もった。彼は暖炉に薪をくべ、銃を手に眠れぬ夜を過ごした。深夜、窓の外で再びあの音が響いた。叩くような、這うような、不気味なリズム。猟師は窓に近づき、凍りついたガラス越しに外を見た。そこには、雪の上を這う無数の影があった。人間の形を模しているが、動きはまるで獣のようだった。影たちは小屋を囲み、ゆっくりと近づいてきた。猟師は扉に板を打ち付け、暖炉の火を大きくした。だが、影たちは止まらなかった。窓に、壁に、屋根に、何かが擦れる音が響き始めた。
翌朝、村人たちが猟師の小屋を訪れた時、そこには誰もいなかった。小屋の扉は壊され、暖炉の火は消え、雪の上には無数の奇妙な模様が残されていた。猟師の銃だけが、雪の中に突き刺さるように立っていた。村人たちは恐怖に震え、祠に供物を捧げ、祈りをささげた。だが、その後も、冬の夜ごとに、森の奥からあの不気味な音が聞こえてくるという。
それから数年、村は次第に寂れ、開拓民たちは別の土地へと移っていった。だが、森と祠はそのまま残り、今もなお、雪の降る夜には、囁き声のような音が響くという。地元の者は決して近づかず、通りかかった旅人が音を聞くたびに、凍える森の奥で何かが動くのを感じるのだ。誰もその正体を知らない。だが、猟師の最期を見た者はいない。そして、雪に刻まれた模様は、今も森のどこかで静かに広がっている。