凍える夜の亡魂の囁き

実話風

1990年代半ば、冬の石川県の山間部。雪がしんしんと降り積もる小さな集落に、俺は引っ越してきたばかりだった。

その集落は、古い木造家屋が点在し、昼間でもどこか薄暗い雰囲気が漂っていた。都会の喧騒に疲れ、静かな場所で暮らしたかった俺にとって、最初は理想的な環境に思えた。家賃は安く、隣人は皆親切だった。ただ、妙な噂が耳に入るようになったのは、引っ越して数日後のことだ。

「この集落の裏山には、近づかない方がいい」と、近所の老人が教えてくれた。理由を尋ねると、彼は目を伏せ、ただ「昔、事故があった」とだけ呟いた。詳しく聞こうとしたが、それ以上は何も話してくれなかった。好奇心旺盛な俺は、気になりつつも、仕事に追われてその話を深く考えることはなかった。

ある晩、仕事が遅くなり、夜道を家に向かって歩いていた。雪が降り続き、街灯の光が雪に反射してぼんやりと辺りを照らしていた。凍てつく寒さの中、吐く息が白く舞い、足元の雪はキリキリと音を立てた。集落の外れ、裏山のふもとに差し掛かったとき、ふと異様な気配を感じた。

背筋がゾクッとした。振り返っても誰もいない。だが、明らかに何かが見ているような感覚がした。雪の降る音以外、何も聞こえないはずなのに、遠くで誰かが囁くような声が聞こえた気がした。「…こっち…おいで…」。その声は、風に混じってかすかに耳に届いた。錯覚だ、と思い直し、足を速めた。だが、歩くたびにその声は少しずつはっきり聞こえてくる。「…こっちだよ…」。

心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝った。家まであと少しだ、と自分に言い聞かせながら走り出した。だが、雪道で足を滑らせ、転倒してしまった。膝を強く打ち、痛みに顔を歪めながら立ち上がろうとした瞬間、目の前に黒い影が立っていた。

それは人影だった。だが、普通の人間ではなかった。ぼんやりとした輪郭、まるで煙のように揺らめく姿。顔は見えないのに、こちらを見つめているのが分かった。恐怖で体が硬直し、声も出なかった。影はゆっくりと近づいてくる。雪を踏む音はしない。まるで浮いているかのように、滑るように俺に近づいてきた。

「…一緒に…行こう…」。その声は、頭の中で直接響くようだった。冷たく、底知れぬ恐怖を孕んだ声。俺は必死で後ずさり、なんとか立ち上がって走り出した。振り返る勇気はなかった。背後から、冷たい風が追いかけてくるような感覚がした。家に飛び込み、ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、ようやく息をつけた。

その夜、眠ることはできなかった。窓の外を見ると、雪が降り続け、裏山の暗い影が不気味に浮かんでいた。翌朝、近所の老人に昨夜のことを話すと、彼の顔は一瞬で青ざめた。「お前、あの山に近づいたのか?」と震える声で言った。そして、初めてその山の話を聞かせてくれた。

30年ほど前、裏山で大規模な雪崩が起きた。山で働く人々が何人も犠牲になり、その中には行方不明になったままの人もいたという。以来、冬の夜にその山に近づくと、亡魂が現れるという噂が絶えなかった。特に、雪の深い夜には、死に引きずり込もうとする声が聞こえるのだと。

それから数日、俺は家に閉じこもった。だが、毎夜、窓の外からあの声が聞こえるようになった。「…おいで…一緒に…」。カーテンを閉め、布団をかぶっても、声は頭の中に響き続けた。ある夜、ついに我慢できなくなり、懐中電灯とナイフを手に、裏山に向かった。もう逃げられない。この恐怖を終わらせたかった。

雪に覆われた山道を進む。懐中電灯の光が雪に反射し、視界は白くぼやけていた。すると、突然、光が消えた。電池切れではない。明らかにつけたままなのに、闇が光を飲み込んだような感覚だった。その瞬間、目の前にあの影が現れた。今度は一人ではなかった。何人もの影が、ぼんやりと浮かび上がっていた。顔はないのに、悲しみと憎しみに満ちた視線を感じた。

「…なぜ…生きてる…」。声は複数重なり、頭の中で轟いた。俺はナイフを握りしめ、叫び声を上げながら振り回した。だが、刃は何も切れず、ただ空を切る音だけが響いた。次の瞬間、冷たい手が俺の首に触れた。凍りつくような冷たさ。体が動かなくなり、意識が遠のいていく。目の前が暗くなり、雪の匂いと冷たさだけが残った。

気がつくと、俺は病院のベッドにいた。集落の人が、裏山で倒れている俺を見つけて助けてくれたらしい。医者は「低体温症だったが、奇跡的に助かった」と言った。だが、俺の記憶にはあの影と声が焼き付いていた。退院後、すぐにその集落を離れた。二度と戻るつもりはない。

今でも、雪の降る夜には、あの声が聞こえる気がする。「…おいで…」。俺は生き延びたが、あの山の亡魂はまだそこにいる。きっと、誰かを待っている。

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