今から10年ほど前、茨城県の山深い村に住む高校生の俺は、夏休みの終わりに奇妙な体験をした。
その夏、俺は親友の翔と一緒に、村の外れにある古い神社に肝試しに行くことにした。村の老人たちは「あの神社は近づくな」と口を揃えて警告していたが、若気の至りでそんな話は笑いものだった。神社は鬱蒼とした森の奥にあり、鳥居は苔に覆われ、参道の石畳はひび割れて草が生い茂っていた。昼間でも薄暗いその場所は、確かに不気味な雰囲気を漂わせていた。
「こんなとこ、幽霊が出てもおかしくねえな」と翔が冗談めかして言った。俺も笑って相槌を打ったが、胸の奥では何かざわざわする感覚があった。神社に着くと、本殿は予想以上に朽ち果てていた。屋根は穴だらけ、壁は剥がれ落ち、祭壇には埃と蜘蛛の巣が積もっていた。それでも、俺たちは面白半分で中に入り、懐中電灯で辺りを照らしながら探検を始めた。
本殿の奥に、古びた木箱を見つけた。箱には錆びた錠がかかっていたが、軽く叩くと簡単に外れた。中には、黄ばんだ和紙に墨で書かれた巻物が入っていた。翔が「これ、なんかヤバそうじゃね?」と興奮気味に言った。俺も好奇心に負け、巻物を広げてみた。そこには、達筆な文字で何か呪文のような言葉が連なっていた。読めない漢字ばかりだったが、最後の一文だけはハッキリと読めた。
「此の社に宿るモノ、決して目覚めさすべからず」
その瞬間、背筋が凍った。まるで誰かに見られているような感覚がした。翔も顔を青ざめさせ、「やべえ、戻ろう」と呟いた。巻物を元に戻し、急いで神社を後にしようとしたその時、本殿の奥からかすかな音が聞こえた。ゴソゴソ、という、まるで何かが這うような音。俺たちは顔を見合わせ、懐中電灯を音の方向に照らした。だが、そこには何もなかった。
「気のせいだろ」と俺は自分を落ち着かせようとしたが、心臓はバクバクしていた。参道を急いで戻る途中、背後からまた音がした。今度はハッキリと、誰かが笑うような声。低く、くぐもった、女の声だった。「ヒヒヒ」と、まるで喉の奥から絞り出すような笑い声が、森の静寂を切り裂いた。俺たちは振り返らず、ただひたすら走った。鳥居をくぐり抜け、ようやく村の明かりが見えた時、初めて息をつけた。
家に帰った後も、あの笑い声が耳から離れなかった。翔に連絡すると、彼も同じことを言っていた。「なんか、あの神社、ヤバかったな」と。俺たちは二度とあの場所には近づかないと誓った。だが、話はそれで終わらなかった。
数日後、翔が突然高熱を出して寝込んだ。医者には「原因不明の熱」と診断されたが、薬を飲んでも一向に良くならない。俺は心配になって彼の家を訪ねた。翔の部屋に入ると、異様な空気が漂っていた。窓は閉め切られ、カーテンも引かれ、薄暗い部屋に妙な匂いが立ち込めていた。翔は布団にくるまり、うわ言のように何かを呟いていた。
「お前…見えるか…あそこに…女が…」
彼の視線を追うと、部屋の隅に黒い影のようなものが見えた。いや、影というより、人の形をした何か。長い髪が垂れ下がり、顔は見えない。だが、その存在感は圧倒的で、部屋の空気を重くしていた。俺は恐怖で声も出せず、ただその場に立ち尽くした。次の瞬間、翔が叫んだ。「来るな! 俺を連れてくな!」
影はスッと消え、翔はそのまま気を失った。俺は慌てて彼の両親を呼び、救急車を呼んだ。病院に運ばれた翔は、数日後にようやく意識を取り戻した。だが、彼はあの日のことを一切話さなくなった。ただ、時折、怯えた目で部屋の隅を見つめるようになった。
俺自身も、あの出来事以来、妙な夢を見るようになった。森の奥、朽ちた神社の本殿で、長い髪の女が俺を見つめている夢だ。彼女の顔は見えないが、口元だけが異様に赤く、笑っている。その笑い声は、あの夜に聞いたものと同じだった。夢から覚めると、いつも体が重く、まるで何かに取り憑かれたような感覚が残った。
村の古老に相談すると、彼は顔を曇らせ、こう言った。「あの神社は、昔、封印のために建てられたものだ。そこに宿るモノは、決して人間が触れてはいけない。お前たちが巻物を開いたことで、何かを呼び起こしてしまったのかもしれん」
古老は、俺と翔のために簡単なお祓いをしてくれた。塩と酒を撒き、祝詞を唱えるその姿は、どこか滑稽にも見えたが、俺は必死で祈った。どうかあの女が現れませんように。どうか俺たちを許してください、と。
それからしばらくは、平穏な日々が続いた。翔も少しずつ元気を取り戻し、俺も夢を見る頻度が減っていった。だが、ある夜、ふとした拍子にあの巻物の文字を思い出した。「決して目覚めさすべからず」。あの女は、本当に目覚めてしまったのだろうか。それとも、俺たちの恐怖が作り上げた幻だったのか。
今でも、茨城のあの村に帰ると、森の奥からかすかに笑い声が聞こえる気がする。気のせいだと分かっていても、背筋が冷たくなる。あの神社には、もう二度と近づかない。でも、どこかで、あの女がまだ俺たちを見ているような気がしてならない。
あの夏の出来事は、俺の心に深い傷を残した。好奇心がどれほど危険なものか、身をもって知った。そして、世の中には、決して触れてはいけないものがあることも。