それは、群馬県の山奥にひっそりと佇む、廃墟と化した古い寺での出来事だった。
今から10年ほど前、俺は大学で民俗学を専攻する学生だった。ゼミの課題で、群馬の山間部に伝わる怪奇譚を調査することになり、仲間三人と一緒にその地を訪れた。メンバーは俺、親友のケン、ゼミ仲間のユキ、そして地元の伝承に詳しい先輩のタカシだ。目的地は、村人からも「近づくな」と言われる、朽ち果てた古刹。そこには、かつて異形の獣を封じたという伝説が残っていた。
その寺は、村から車で1時間ほど山道を登った場所にあった。道は舗装されておらず、ガタガタの砂利道を進むたびに、車内の空気が重くなった。ユキが「なんか、嫌な予感がするね」と呟いたとき、ケンが「ビビるなよ、ただの廃墟だろ」と笑い飛ばした。でも、タカシの顔は硬かった。「この辺の話、舐めない方がいいよ」と一言。俺も、胸の奥でざわめく不安を抑えきれなかった。
夕暮れ時に寺に到着した。鳥居をくぐると、苔むした石段が続き、その先には崩れかけた本堂が薄闇に浮かんでいた。屋根は穴だらけ、壁には蔦が絡まり、まるで時間が止まったような光景。空気はひんやりと湿っていて、鼻をつくカビ臭が漂っていた。俺たちは懐中電灯を手に、本堂の中へ足を踏み入れた。
中は予想以上に荒れ果てていた。床板は腐り、仏像は埃と蜘蛛の巣に覆われていた。タカシが持ってきた古い地元の文献によると、この寺は数百年前、村を荒らす「獣」を封じるために建てられたという。獣は人とも獣ともつかぬ姿で、夜な夜な村人を襲い、血を啜ったとされる。寺の僧侶たちが命がけで封印し、以来、村は平穏を取り戻したらしい。だが、封印の詳細は文献にも記されておらず、ただ「決して地下に近づくな」と書かれていた。
「地下?」ケンが不思議そうに呟いた。「こんなボロ寺に地下なんてあるのかよ」
その言葉が引き金だった。ユキが本堂の奥、祭壇の裏に隠された木の扉を見つけたのだ。扉は古びてはいたが、異様に頑丈そうで、錆びた錠がかかっていた。タカシが「開けるなよ、絶対」と警告したが、ケンは好奇心を抑えきれなかった。「ちょっと覗くだけだろ」と、バールで錠をこじ開けた。
扉の向こうは、真っ暗な石段が下に続いていた。懐中電灯の光を頼りに、俺たちは恐る恐る降りていった。空気はさらに冷たく、湿気が肌にまとわりついた。石段の先には、広い地下室が広がっていた。壁には奇妙な紋様が刻まれ、中心には石の台座があった。台座の上には、鎖で縛られた古い木箱。箱には赤黒い染みがこびりつき、まるで血が滲んだように見えた。
「これ、封印の箱じゃね?」ケンが興奮気味に言った瞬間、ユキが悲鳴を上げた。彼女の懐中電灯が照らした壁に、人のものとは思えない巨大な爪痕が刻まれていたのだ。まるで、何かが暴れ回った痕跡のように。タカシの顔が青ざめた。「やばい、すぐ出よう」
だが、その時だった。地下室の奥から、低い唸り声が響いた。ゴロゴロと喉を鳴らすような、獣の声。俺たちの懐中電灯が一斉にその方向を照らすと、暗闇の奥で何かが動いた。赤い目が、ぎらりと光った。次の瞬間、けたたましい咆哮が地下室を震わせ、俺たちは一斉に石段を駆け上がった。
本堂に戻った瞬間、背後で扉がバタンと閉まった。ケンが「何だよ、あれ!?」と叫びながら扉を叩いたが、開かない。ユキは震えながら「見ちゃった…あれ、絶対人間じゃない」と泣き出した。タカシは冷静を装いつつ、「とにかく外に出るぞ」と俺たちを急かした。
だが、寺の外に出ても、恐怖は終わらなかった。夜の山は静かすぎるほど静かで、虫の声すら聞こえない。懐中電灯の光が届く範囲以外は、真っ黒な闇に飲み込まれていた。車に向かう途中、俺はふと振り返った。寺の屋根の上に、巨大な影が蹲っていた。人の形をしていたが、異様に長い腕と、鋭い爪が月明かりに映っていた。そいつが、俺たちをじっと見つめている気がした。
「走れ!」タカシの叫び声で我に返り、俺たちは車に飛び乗った。エンジンをかけ、砂利道を猛スピードで下ったが、後ろから何かが追いかけてくる気配がした。バックミラーに映るのは、ただの闇。だが、時折、木々の間を飛び跳ねる影が見えた。ケンは「早く!早く!」と叫び続け、ユキは祈るように目を閉じていた。
ようやく村に辿り着いたとき、夜が明け始めていた。車を降りた俺たちは、放心状態で互いの顔を見合わせた。タカシが「二度とあの寺には近づくな」と呟き、俺たちも頷くしかなかった。後日、調査のために村の古老に話を聞いたが、「あの寺のことは忘れなさい」とだけ言われ、詳しい話は何も聞けなかった。
それから数年、俺たちはあの夜のことを口にしなくなった。だが、ユキは時折、夜中に獣の咆哮を夢で見ると言う。ケンはあの後、山には一切近づかなくなった。そして俺は、未だに背筋が凍るような感覚に襲われることがある。特に、静かな夜、窓の外に赤い目が光っている気がして、思わずカーテンを閉めるのだ。
あの寺は今も山奥に佇んでいるらしい。村人たちは近づかず、語り継ぐことすら避けている。だが、俺は知っている。あの地下室で見た赤い目は、決して幻なんかじゃなかった。あの獣は、今もそこにいる。そして、誰かが再び封印を解くのを、じっと待ち続けているのだ。