凍てつく夜の囁き

実話風

北海道の冬は、まるで世界の果てに迷い込んだかのような静寂に包まれる。数年前、大学を卒業したばかりの私は、就職活動の息抜きに、友人の実家がある道北の小さな町を訪れた。その町は、雪に埋もれた一軒家が点在し、夜になると街灯の光すら雪に吸い込まれるような場所だった。

友人の名前は仮にユウキとしよう。彼の実家は町外れの古い家で、木造の軋む音が、まるで家が生きているかのように響いていた。ユウキの両親は親戚の法事で不在で、広い家には私とユウキ、そして彼の従妹のミサキの三人だけがいた。ミサキは高校生で、普段は無口だが、時折鋭い目でこちらを見つめる癖があった。

初日の夜、暖炉の火を囲みながら、ユウキが地元の噂話を始めた。「この辺の山、昔から変な話が多いんだよ。特に冬になるとさ、行方不明になる人が後を絶たないんだ。」彼の声は軽快だったが、暖炉の火が一瞬揺れた気がした。ミサキは黙ったまま、膝を抱えてじっと火を見つめていた。

「そんな話、よくある田舎の怖い話だろ?」私は笑って話を流そうとしたが、ユウキは真顔で続けた。「いや、ただの噂じゃないよ。ほら、うちの裏の山、あそこに古い祠があるだろ? あそこ、昔、村の人が何か封じたって話なんだ。」

その夜、寝室の窓から見える裏山が、なぜか妙に気になった。雪に覆われた山は、月光を反射して青白く輝いていた。窓の外は氷点下20度近くまで冷え込み、ガラスには霜の模様が広がっていた。布団に潜りながら、ユウキの話が頭を離れなかった。

翌日、昼間にユウキとミサキを誘って裏山の散策に出かけた。雪は膝まで積もり、歩くたびにズボッと足が沈んだ。ミサキは気乗りしない様子だったが、ユウキが「せっかく来たんだから、見てみようぜ!」と強引に連れ出した。山の奥に進むにつれ、空気が重くなり、風がピタリと止んだ。まるで森全体が息を潜めているようだった。

やがて、雪に半分埋もれた小さな祠を見つけた。石造りの祠は苔むし、屋根には雪が積もっていた。祠の前には古びた鈴が吊るされ、錆びた鎖が風もないのに微かに揺れていた。「これがその祠か…」ユウキが呟いた瞬間、ミサキが急に立ち止まった。「…何か聞こえる。」彼女の声は震えていた。

耳を澄ませると、確かに何か音がした。低く、唸るような、人の声とも風ともつかない音。ユウキは「ただの風だろ」と笑ったが、彼の目には不安が浮かんでいた。私は祠に近づき、雪をかき分けて中を覗こうとした。だが、その瞬間、背筋が凍るような感覚が走った。祠の奥に、黒い影が動いた気がしたのだ。

「やめなよ!」ミサキが叫び、私の手を掴んだ。彼女の目は恐怖で潤んでいた。「ここ、ダメな場所なの! 早く帰ろう!」ユウキもさすがに気味が悪くなったのか、「まあ、確かに変な感じするな…」と引き返すことを提案した。

家に戻ると、ミサキは自分の部屋に閉じこもり、ユウキと私はリビングで気まずい沈黙に耐えた。「ミサキ、昔からちょっと霊感あるって言ってたっけ…」ユウキがポツリと呟いた。私は冗談めかして「まさか、本当に何かいるわけないよな?」と言ったが、心のどこかで祠の黒い影が引っかかっていた。

その夜、異変が起きた。深夜、寝室の窓がガタガタと鳴り始めたのだ。風の音にしては不規則で、まるで誰かが窓を叩いているようだった。私は布団の中で固まり、目を閉じてやり過ごそうとした。だが、音は止まなかった。それどころか、窓の外から囁くような声が聞こえてきた。

「…おいで…おいで…」

声は低く、まるで耳元で囁かれているようだった。恐怖で体が動かず、ただ布団を握りしめた。どれくらい時間が経ったのか、ようやく音が止んだ時、部屋の中が異様に冷え込んでいることに気づいた。息が白く、まるで冷凍庫の中にいるようだった。

翌朝、ユウキに昨夜のことを話すと、彼も似たような体験をしていた。「窓の外で何か動いてた気がした…でも、怖くて見れなかった。」ミサキは朝食の席に現れず、ユウキが様子を見に行くと、彼女は布団の中で震えていた。「あそこに行っちゃダメ…あれ、怒ってる…」彼女はそれだけ繰り返していた。

その日、ユウキの両親が帰宅し、ミサキの様子を見て何かを感じ取ったのか、すぐに地元の神主を呼んだ。神主は裏山の祠の話を聞くと、顔を曇らせ、「あの祠には触れてはいけないものがある」とだけ言った。彼は家にお札を貼り、ミサキに護符を持たせたが、具体的な説明は避けた。

私たちはその日のうちに町を離れた。帰りの列車の中で、ミサキがポツリと呟いた。「あの祠、昔、村の人が何か悪いものを封じたんだって。でも、時々、隙間から漏れ出すの…」彼女の目は遠くを見ていた。

それから数年、私はあの町には二度と行っていない。ユウキとは今も連絡を取るが、ミサキはその後、町を出てどこか遠くに引っ越したらしい。あの祠のことは、考えるだけで今でも寒気がする。雪に閉ざされた山の奥で、今もあの黒い影が囁いているのではないか。そんな想像が、夜中にふと頭をよぎるのだ。

最後に一つだけ。あの夜、窓の外で囁いていた声は、確かに私の名前を呼んでいた。それだけは、誰にも言えずにいる。

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