凍える森の囁き

実話風

長野県の山奥、深い森に囲まれた小さな村があった。村人たちは代々、森の奥にある古い祠には近づかないという掟を守ってきた。祠には、何か得体の知れないものが封じられていると囁かれていたからだ。だが、都会から移り住んできた若い男は、そんな言い伝えを笑いものだと考えていた。

その男は、村に越してきて間もない頃、友人を連れて森の奥へ探検に出かけた。名前を仮に翔としよう。翔は好奇心旺盛で、村人たちの警告を無視し、祠を見つけ出すことに執着していた。友人の一人は気乗りしない様子だったが、もう一人の友人は翔の冒険心に乗り、軽い気持ちでついていった。三人は懐中電灯を手に、夜の森へと足を踏み入れた。

森は静かだった。いや、静かすぎた。虫の音も鳥のさえずりも聞こえない。ただ、木々の間をすり抜ける風が、まるで囁き声のように耳元で響く。翔はそれを気にも留めず、祠の場所を地図に頼らずに探し始めた。村の古老が語った「祠は月の光が届かない場所にある」という言葉だけを頼りに、闇の中を進んだ。

どれほど歩いただろうか。月明かりが薄れ、木々が密集する場所にたどり着いた。そこには、苔むした石の祠がぽつんと立っていた。祠は古びており、表面には奇妙な紋様が刻まれていた。翔は興奮した様子で祠に近づき、友人に「ほら、見つけたぞ!」と叫んだ。だが、友人の一人は顔を青ざめさせ、「何かおかしい…ここ、寒すぎる」と呟いた。確かに、夏の夜だというのに、祠の周りだけが異様に冷え込んでいた。まるで、冷蔵庫の中にいるかのような寒さだった。

翔はそんな雰囲気を無視し、祠の扉に手を伸ばした。木製の扉は朽ちかけていて、触れると不気味な軋み音を立てた。友人が「やめろよ、開けるな!」と叫んだ瞬間、扉がひとりでに開いた。中は真っ暗で、何も見えない。だが、翔は懐中電灯を手に、恐れることなく中を覗き込んだ。その瞬間、彼の顔が凍りついた。「…何かいる」と、震える声で呟いた。

友人が慌てて近づくと、祠の中から冷たい風が吹き出し、懐中電灯の光が揺れた。翔の目は何かを見据えたまま動かない。友人が彼の肩を揺さぶると、翔は突然叫び声を上げ、祠から飛び退いた。「目…目がいた! 無数の目がこっちを見てる!」彼の声は恐怖に震え、普段の自信に満ちた態度は消え失せていた。

友人の一人が祠を覗こうとしたが、急に体が動かなくなった。まるで何かに縛られたように、足が地面に縫い付けられた感覚だった。もう一人の友人はパニックになり、逃げようとしたが、森の闇が彼らを包み込むように濃くなっていく。木々の間から、かすかな笑い声のような音が聞こえてきた。それは人間の声ではなく、まるで風や木の葉が擦れ合うような、異質な音だった。

翔は震えながらも、祠の扉を閉めようとした。だが、扉はまるで意志を持っているかのように、閉まらない。逆に、祠の中から黒い霧のようなものが溢れ出し、ゆっくりと彼らに近づいてきた。霧の中には、確かに目があった。無数の、赤く光る目が、じっと彼らを見つめていた。その目は、ただ見ているだけではなく、彼らの心の奥底を覗き込むような、ぞっとする感覚を与えた。

「走れ!」翔が叫び、三人は我先にと森を駆け出した。だが、どれだけ走っても、森の出口は見えない。まるで森自体が彼らを閉じ込めようとしているかのようだった。背後からは、追いかけてくるような足音が聞こえる。振り返ると、誰もいないのに、木々の影が不自然に揺れていた。影の中には、人の形をした何かがあった。それは、まるで彼らの動きを真似るように、ゆっくりと近づいてくる。

一人が力尽きて倒れた。友人の一人が彼を助けようとしたが、倒れた男の体は異様に冷たかった。まるで、命が吸い取られたかのように、顔は真っ白で、目は虚ろだった。翔は叫びながら走り続けたが、友人の一人が「もうダメだ…許してくれ」と呟き、立ち止まってしまった。その瞬間、黒い霧が彼を包み込み、悲鳴が森に響いた。翔は振り返らず、ただひたすらに走った。

どれだけ時間が経ったのか、翔はようやく森の外に出た。村に戻った彼は、放心状態で村人たちに助けを求めた。だが、村人たちは彼の話を聞くと、顔を曇らせ、「だから言っただろう。祠には近づくな」とだけ呟いた。翔は友人の安否を尋ねたが、村人たちは誰も答えなかった。翌日、村人たちと一緒に森へ戻ったが、祠は跡形もなく消えていた。まるで、最初からそこになかったかのように。

それから数週間、翔は毎夜悪夢にうなされた。夢の中では、無数の赤い目が彼を見つめ、囁き声が耳元で響く。「お前は逃げた。だが、代償は払う」と。ある夜、翔は耐えきれず、村を離れた。だが、どこへ行っても、冷たい風と囁き声が彼を追いかけてきた。やがて、彼の姿を見た者はいなくなった。村人たちは言う。「あの森に近づいた者は、決して逃げられない」と。

今もなお、その森の奥には、祠が現れるという。月の光が届かない夜、森に入った者を待ち受けるのは、ただの闇ではない。そこには、何か古い、名もなきものが潜んでいる。そして、一度その目に捉えられた者は、二度と元の世界には戻れないのだ。

村の古老は、こう語る。「あの祠は、ただの石ではない。そこには、人の心の闇を引きずり出す何かがある。好奇心、傲慢、恐怖…それら全てを喰らうものだ」と。あなたは、もしあの森の近くを通ることがあれば、決して足を踏み入れてはいけない。なぜなら、闇の中の目は、いつも誰かを待っているのだから。

タイトルとURLをコピーしました