福岡県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた小さな集落があった。そこは地図にも載らないような場所で、外部との交流はほとんどなく、時間が止まったような静けさが漂っていた。集落の外れには、苔むした石の祠がぽつんと佇んでいた。地元の人々は、その祠のことを口にすることすら避け、子供たちには近づかないよう厳しく言い聞かせていた。だが、なぜか誰もその理由を語ろうとはしなかった。
俺の名前は悠斗、大学で民俗学を専攻する学生だ。ある夏、フィールドワークのためにこの集落を訪れた。古い伝承や風習を調べるのが目的だったが、到着したその日から、どこか異様な空気を感じていた。集落の人々はよそ者である俺を冷ややかに見つめ、必要以上の会話を避けるようだった。それでも、宿泊先の古い民家で暮らすお婆さんだけは、俺に親切にしてくれた。
「悠斗さん、あの祠には近づかん方がいいよ」と、初日の夜、彼女は震える声で言った。白髪を束ねたその顔には、深い皺と共に何か怯えたような表情が浮かんでいた。「あそこには、昔から何かおる。何か…人間じゃないものが」
その言葉に、俺の好奇心は逆に掻き立てられた。民俗学を学ぶ者として、こうした話は宝の山だ。祠にまつわる伝承を聞きたかったが、お婆さんはそれ以上何も語らず、ただ「夜は絶対に出歩かんとき」と繰り返した。
翌日、俺は地元の人々に祠について尋ねて回ったが、誰もが口を閉ざすか、話を逸らすばかりだった。ある老人は、俺があまりしつこく聞くと、目を吊り上げて「余計なこと考えんで、さっさと帰れ!」と怒鳴った。その剣幕に気圧されつつも、俺の探究心は収まらなかった。
その夜、懐中電灯を手に、俺はこっそり民家を抜け出した。月明かりが薄く照らす森の中を進み、祠を目指した。道は険しく、木々の間を縫うように進むうち、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてきた。風の音か、動物の声か。自分を落ち着かせるためにそう思い込もうとしたが、心臓はどんどん速く脈打った。
やっと祠にたどり着いた。石造りのそれは、想像以上に古びており、表面には無数の傷やひびが入っていた。祠の前には小さな供え物の皿があったが、中は空で、埃と枯れ葉が溜まっているだけだった。俺は祠の周りを観察し、ノートにスケッチを始めた。すると、背後でかすかな音がした。パキッ。誰かが枝を踏んだような音だ。
「誰だ?」
振り返ったが、そこには誰もいなかった。ただ、森の闇が一層濃くなったように感じられた。懐中電灯を振り回すと、木々の間に何か白いものがチラリと動いた気がした。錯覚だ、と言い聞かせ、俺はスケッチを続けた。だが、次の瞬間、祠の奥から囁き声が聞こえてきた。
「…来るな…来るな…」
凍りついた。声は低く、まるで地面の底から響いてくるようだった。懐中電灯を祠に向けると、内部に何か黒い影が揺れているのが見えた。いや、影じゃない。それはまるで人の形をした煙のようなものが、ゆっくりと祠から這い出してくるようだった。俺は後ずさり、足がもつれてその場に尻もちをついた。
「…お前も…見えるのか…?」
その声は、さっきよりもはっきりと耳に届いた。女の声だったが、どこか歪んで、まるで複数の声が重なっているようだった。俺は恐怖で声も出せず、ただその場から這うように逃げ出した。森の中を走る間、背後から何かが追いかけてくる気配がした。木々の間を抜けるたびに、冷たい手が首筋をかすめるような感覚が襲ってきた。
やっと民家に戻った時には、夜が明け始めていた。部屋に飛び込み、布団に潜り込んだが、心臓はまだバクバクと鳴り続けていた。お婆さんが朝食を用意しながら、俺の顔を見て何か察したようだった。
「祠に行ったね?」
彼女の声は静かだったが、どこか諦めたような響きがあった。俺は頷き、震える声で昨夜の出来事を話した。お婆さんは長いため息をつき、こう語り始めた。
「あの祠には、昔、村の娘が封じられたんよ。詳しいことは誰も知らん。けど、村に災いが降りかからんように、誰かが犠牲にならんといかんかった。それ以来、あの祠には何か得体の知れんものが住み着いとる。夜に近づく者は、決まって妙なものを見るか、帰ってこんか…」
俺は背筋が凍る思いだった。お婆さんは続けた。「あんた、運が良かったよ。まだ生きとるんやから」
その言葉が、逆に恐怖を増幅させた。生きている? じゃあ、帰ってこなかった者たちはどうなったのか。聞きたかったが、口が動かなかった。
その後も、俺は集落で数日を過ごしたが、祠のことは二度と口にしなかった。だが、夜になるたび、窓の外からあの囁き声が聞こえてくる気がした。「…お前も…見えるのか…」。毎晩、布団の中で震えながら、朝を待った。
帰りのバスに乗る日、俺は集落の入り口で最後に祠の方を振り返った。遠く、森の奥にその石の姿が見えた。すると、突然、頭の中に直接響くような声が聞こえた。
「…また来い…」
バスが動き出した瞬間、俺は窓の外に目をやった。祠の前に、ぼんやりと白い人影が立っているのが見えた。いや、立っているというより、浮いているようだった。その顔は見えなかったが、こちらをじっと見つめている気がした。
それ以来、俺はあの集落には二度と近づいていない。だが、夜が更けるたびに、時折あの囁き声が耳の奥で蘇る。まるで、俺を呼ぶように。
今でも思う。あの祠に封じられたものは、本当にただの伝説だったのか。それとも、俺が見たものは、確かにそこにいた何かだったのか。答えはわからない。ただ一つ確かなのは、あの夜、俺が感じた恐怖は、決して忘れることのできないものだったということだ。
(了)