数年前の夏、佐賀県の山間部にある小さな集落に住む私は、祖母から不思議な話をよく聞かされていた。集落の外れにある古い山道、そこを通る者は決して夜に歩いてはいけないという。理由を尋ねても、祖母はただ「悪いものがいる」とだけ言い、詳しくは教えてくれなかった。子供の頃はその話を笑いものにしていたが、大人になった今、なぜかその山道の存在が気になって仕方なかった。
その年の夏、親戚の集まりで集落に帰省した私は、懐かしさから昼間にその山道を散歩してみることにした。山道は鬱蒼とした木々に覆われ、昼間でも薄暗く、空気はどこかひんやりとしていた。道の脇には古い石碑が苔むしており、読めない文字が刻まれていた。子供の頃に見た記憶はあるが、こんなに不気味な雰囲気だっただろうか。少しだけ歩いてみたが、妙な胸騒ぎがして引き返した。その夜、親戚たちと酒を飲みながら、昼間の山道の話を何気なく口にすると、叔父が急に真顔になった。
「その道はな、昔から『霧隠れの道』って呼ばれてるんだ。夜に行くと、二度と帰ってこられないって話だよ」
叔父の言葉に、場が一瞬静まり返った。冗談好きな叔父がこんな話を本気でするなんて珍しい。興味本位で詳しく聞くと、昔、村の若者が夜にその道を通って行方不明になったことが何度かあったという。特に霧が濃い夜には、道に立つ「何か」が人を惑わすのだと。叔父は「妖怪だ」と断言したが、具体的な姿は誰も知らないらしい。ただ、行方不明になった者たちの家族は、皆、奇妙な夢を見たと語っていた。そこには、霧の中に立つ人影が、ゆっくりと手招きする姿があったという。
その話を聞いて、なぜか昼間の胸騒ぎが蘇ってきた。酒の席では笑いものとして流したが、心のどこかで不気味な好奇心が芽生えていた。翌日、昼間にまた山道を訪れた私は、道の奥に進むほど空気が重くなるのを感じた。木々の間から聞こえる鳥の声も、どこか遠く、まるでこの道だけが世界から切り離されているようだった。ふと、足元に小さな白い花を見つけた。見たことのない花で、妙に鮮やかだった。摘もうとした瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると誰もいない。ただ、風もないのに木の葉が揺れていた。
その夜、集落に濃い霧が立ち込めた。窓の外は真っ白で、まるで世界が消えたかのようだった。親戚の家で寝床についたが、なぜか眠れなかった。頭の中には山道の風景と、叔父の話がぐるぐると巡っていた。すると、どこからか低い声が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、だんだんとそれは言葉のように聞こえた。「…こい…こい…」
声は遠くから、だが確かに私の耳に届いていた。恐怖で体が硬直したが、同時に、なぜかその声に従いたいという衝動が湧いてきた。まるで体が勝手に動くように、布団を抜け出し、靴を履いて外に出た。霧はさらに濃くなり、目の前はほとんど見えない。なのに、足は自然と山道の方へ向かっていた。
山道の入り口に立つと、霧の中からかすかに光るものが見えた。それは、昼間に見たあの白い花だった。花は道の奥へ続くように点々と地面に落ちていた。私は、まるで操られるようにその花を追いかけた。道を進むにつれ、霧がさらに濃くなり、足音すら吸い込まれるような静寂が広がった。どれくらい歩いただろう。ふと、目の前に人影が立っていることに気づいた。
それは、背の高い、ひどく痩せた人影だった。顔は霧に隠れて見えないが、長い腕がだらりと下がり、指先が不自然に長く伸びていた。恐怖で足がすくんだが、なぜか目を離せなかった。人影はゆっくりと手招きし、低い声で囁いた。「…もっと…こい…」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。頭の中で何かが弾け、必死で後ずさりした。すると、人影が一歩近づいてきた。その動きは滑-express-人間のものとは思えないほどぎこちなく、まるで糸に吊られた操り人形のようだった。私は叫び声を上げ、踵を返して走った。霧の中で方向感覚を失いながら、ただひたすらに走った。どれだけの時間が経ったのか、気がつくと集落の明かりが見えていた。
家にたどり着いたとき、服は汗と霧でびしょ濡れだった。家族に事情を話したが、誰も信じてくれなかった。ただ、祖母だけが静かに私の手を握り、「もう二度と夜にあの道に行くな」と言った。その目には、深い恐怖が宿っていた。
翌朝、山道をもう一度見に行った。霧は晴れ、いつもの静かな道に戻っていた。だが、あの白い花はどこにも見当たらなかった。それ以来、私はその道に近づいていない。だが、今でも濃い霧の夜になると、あの声が聞こえてくる気がする。「…こい…こい…」
誰も信じてくれないこの話を、私は誰にも話せずにいる。だが、もしあなたが佐賀の山間部を訪れることがあれば、夜の山道には絶対に近づかないでほしい。あの妖怪は、今もそこにいるかもしれない。