霧深い森の妖怪の囁き

妖怪

私は、大学を卒業したばかりの24歳の会社員だ。都会の喧騒に疲れ、週末を利用して故郷の宮崎県に帰省した。実家は県北部、霧深い山々に囲まれた小さな集落にある。子どもの頃、祖母から「夜の森には入るな」と繰り返し言われていたが、大人になった今、そんな迷信は笑いものだと思っていた。

その日、夕暮れ時に実家の裏山を散歩していた。秋の空気はひんやりとしていて、木々の間を抜ける風が心地よかった。スマートフォンで写真を撮りながら、ふと子どもの頃に友達と冒険した森の奥にある古い祠のことを思い出した。あの祠には何か不気味な雰囲気があり、いつも遠くから眺めるだけで近づかなかった。好奇心が湧き、懐かしさも手伝って、祠まで足を伸ばしてみることにした。

森の奥に進むにつれ、空気が重くなり、鳥のさえずりが消えた。スマートフォンの電波も不安定になり、画面がチラついた。それでも、祠を見つけるまでは引き返さないと決めていた。やがて、苔むした石段と、その上に佇む小さな木造の祠が見えてきた。屋根は朽ちかけ、鳥居の朱色は剥げ落ちていた。祠の周囲には奇妙な静けさが漂い、まるで時間が止まっているかのようだった。

祠の前に立つと、急に背筋が冷えた。何かが見ている気がした。振り返っても誰もいない。ただ、風もないのに木の葉がざわめき、遠くで低いうめき声のような音が聞こえた。気味が悪くなり、写真を撮って早々に立ち去ろうとしたその時、祠の中からかすかな笑い声が聞こえた。子どものような、しかしどこか不自然な、甲高い声だった。

「誰だ?」

思わず声に出したが、返事はない。代わりに、祠の奥から黒い影が動いた気がした。目を凝らすと、暗闇の中に白い顔が浮かんでいる。目はなく、口だけが異様に大きく裂け、笑っているように見えた。私は恐怖で足がすくみ、動けなかった。影はゆっくりと祠から這い出し、私の方へ近づいてきた。その動きは人間のものではなく、まるで関節が逆さに折れたかのようにぎこちなかった。

「遊ぼうよ」と、声が耳元で囁いた。冷たい息が首筋に触れ、身体が震えた。逃げなければと思ったが、足は地面に根を張ったように動かない。影はさらに近づき、その裂けた口から長い舌が伸び、私の顔を舐めるように動いた。吐き気がこみ上げ、叫び声を上げようとした瞬間、突然視界が暗転した。

次に気がついたとき、私は森の入り口に倒れていた。空はすでに夜で、月明かりが薄く地面を照らしていた。スマートフォンは近くに落ちていたが、バッテリーが切れていた。祠の写真を撮った記憶はあるが、確認する勇気はなかった。よろめきながら実家に戻ると、祖母が玄関で待っていた。私の顔を見るなり、彼女は青ざめ、「あんた、森に行ったな」と一言。それ以上は何も言わず、私を家に引き入れた。

その夜、祖母から初めて聞かされた話がある。裏山の祠には、古くから「口裂け女」と呼ばれる妖怪が住むという。彼女はかつて村の子どもを攫い、その魂を喰らう存在だった。戦後、祠を封じるために村の神主が祈祷を行ったが、完全に封じ込めることはできず、時折、好奇心旺盛な者を誘い出すのだという。「夜の森に入った者は、必ず何かを持ち帰る」と祖母は言った。その言葉が脳裏に焼き付いた。

翌朝、鏡を見ると、首筋に赤い痣のような痕があった。触れるとひりひりと痛み、まるで何かに舐められたような感触が蘇った。それ以来、夜になると耳元でかすかな笑い声が聞こえることがある。最初は気のせいだと思っていたが、声は徐々に大きくなり、「遊ぼうよ」と繰り返すようになった。仕事中でも、電車の中でも、ふとした瞬間にその声が響く。夜、目を閉じると、裂けた口と白い顔が浮かぶ。

私はもうあの集落には戻っていない。都会の喧騒の中でも、静かな夜にはあの森の気配を感じる。スマートフォンを買い替えたが、なぜか新しい端末でも時折、祠の写真がギャラリーに現れる。削除しても、翌日にはまたそこにある。写真の中の祠の奥には、いつもあの白い顔が映り込んでいる。私はもう、夜の森には二度と近づかないと誓った。だが、彼女はまだ私を見ている気がしてならない。

最近、会社の同僚が私の首の痣に気づき、「それ、なんか不気味だね」と笑った。その夜、彼女の声がまた聞こえた。「次はお前だ」と。今、私はこの話を書きながら、背後に冷たい気配を感じている。振り返る勇気はない。だが、もしあなたが宮崎の山奥を訪れるなら、夜の森には決して入らないでほしい。彼女はそこにいる。そして、彼女はまだ遊ぶ相手を探している。

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