淀川の静かな叫び声

SFホラー

大阪府の北西部、淀川の河川敷近くに古びた団地が立ち並ぶ一角がある。10年ほど前、2015年の夏、私はその団地に引っ越してきたばかりだった。大学を卒業し、就職したばかりの23歳。新しい生活に胸を膨らませていたが、その団地にはどこか不気味な空気が漂っていた。

団地は1970年代に建てられたもので、コンクリートの壁はひび割れ、階段の手すりは錆びついていた。私の住む部屋は5階の角部屋。家賃が安いのが魅力だったが、夜になると妙な静けさが部屋を包む。都会の喧騒が遠くに聞こえるのに、団地の中はまるで時間が止まったように静かだった。

引っ越して数日目の夜、初めてその「音」を聞いた。深夜2時頃、寝ようとしていた時、窓の外から低いうめき声のような音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、音は次第に明確になり、まるで誰かが遠くで泣いているような声に変わった。ベッドから起き上がり、恐る恐る窓に近づいた。カーテンをそっと開けると、淀川の暗い水面が月明かりに照らされて揺れているのが見えた。しかし、声の主はどこにもいなかった。

翌朝、隣に住む年配の女性にその話をすると、彼女の顔が一瞬強張った。「あんたも聞いたんやね…」と彼女は小さな声で言った。彼女によると、その団地では昔、不可解な事件が起きたという。30年以上前、若い女性がこの団地の屋上から飛び降り、その後、夜な夜な彼女の泣き声が聞こえるという噂が広まった。女性は声を荒げて「そんなん、ただの噂や!」と言い、話を打ち切ったが、その目には怯えが宿っていた。

私は気味が悪くなりつつも、科学的な思考を信じるタイプだったから、ただの風や配管の音だと自分に言い聞かせた。しかし、その夜もまた同じ音が聞こえた。今度は泣き声だけでなく、かすかに足音のようなものも混じっていた。トン、トン、と規則正しく、まるで誰かが廊下を歩いているようだった。怖くなり、ドアの鍵を二重に確認したが、音は止まなかった。むしろ、ドアのすぐ外で聞こえるようになった。

翌日、団地の管理人に話を聞いてみた。管理人は60代くらいの無口な男性だったが、私の質問に渋々答えた。「その話、昔からあるよ。けど、誰も本当には信じてない。気にせんほうがええ」とだけ言って、すぐに話題を変えた。彼の態度は明らかに何かを隠しているようだった。

数日後、事態はさらに奇妙な方向に進んだ。ある晩、いつもの泣き声が聞こえた後、突然部屋の電気がチカチカと点滅し始めた。テレビの画面もノイズが走り、砂嵐のような映像が映し出された。画面には一瞬、ぼやけた人影のようなものが映った気がしたが、すぐに消えた。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝った。私はすぐに電気を消し、布団に潜り込んで朝を待った。

次の日、団地の他の住人に話を聞いて回ったが、誰もが口を閉ざすか、「そんな話知らん」とはぐらかすばかりだった。ただ、一人の若い男性が、酔った勢いでこう漏らした。「あの泣き声な、ただの幽霊やないで。もっとヤバいもんや…」彼はそれ以上話さず、フラフラと部屋に戻ってしまった。

その夜、私はもう我慢できず、音の正体を確かめようと決めた。懐中電灯とスマホを手に、泣き声が聞こえる方角へ向かった。音は団地の裏手、淀川に面した茂みの方から聞こえてくるようだった。夜の河川敷は真っ暗で、街灯の光も届かない。懐中電灯の光を頼りに進むと、茂みの奥に古びたコンクリートの構造物が見えた。まるで小さなトンネルの入り口のようだったが、団地の設計図にはそんなものの記載はなかった。

近づくと、泣き声がはっきりと聞こえてきた。だが、それは人間の声ではなかった。低く、機械のような、しかしどこか生き物の苦しむような響きがあった。恐ろしさで足がすくんだが、好奇心が恐怖を上回った。私はトンネルの入り口に踏み込んだ。中は湿気とカビの匂いが充満し、壁には奇妙な記号のようなものが刻まれていた。懐中電灯の光で照らすと、記号はまるで生きているかのように蠢いているように見えた。

奥に進むと、トンネルは突然開けた空間に出た。そこには古い機械のようなものが置かれていた。錆びついたパイプと歯車が絡み合い、中心にはガラス製の円筒があった。その中には、黒い液体が揺れ動いており、時折、人の顔のような形が浮かび上がる。泣き声はその機械から発せられていた。私は恐怖で動けなくなった。すると、背後でガサッと音がした。振り返ると、そこには誰もいなかったが、足元に小さな紙切れが落ちていた。拾い上げると、そこには「見るな、聞くな、近づくな」と殴り書きされていた。

その瞬間、機械が激しく振動し始め、ガラス円筒の中の液体が沸騰するように泡立った。顔のような形が次々と浮かび上がり、まるで私を睨んでいるようだった。私は叫び声を上げ、トンネルを走って逃げ出した。団地に戻ると、すぐに荷物をまとめ、翌日には引っ越した。

後日、大学の友人にその話をすると、彼は真剣な顔でこう言った。「あの辺、昔、変な実験やってたって噂があったよ。なんか、人の意識を機械に閉じ込めるみたいな…失敗したって話だけどな」私はぞっとした。あの機械は、ただの廃墟ではなかったのかもしれない。淀川のほとりで、今もあの泣き声が響いているのだろうか。

それから10年、私は二度とあの団地には近づいていない。だが、時折、夢の中であの機械の振動音と、ガラスの中の顔が蘇る。あの場所には、何か説明のつかないものが確かに存在していた。そして、それは今もなお、静かに叫び続けているのかもしれない。

タイトルとURLをコピーしました