20年前の夏、大分県の山深い集落に引っ越してきた私は、都会の喧騒を離れ、静かな暮らしを夢見て小さな一軒家を借りた。集落は古びた家々が点在し、住民は皆、年配で口数が少なかった。家の裏には鬱蒼とした森が広がり、その奥に小さな社があると近所の老人が教えてくれた。「あそこには近づかん方がいい」と、老人は目を細めて忠告したが、理由を尋ねても口を濁すだけだった。
私は好奇心旺盛な性格で、都会育ちの若者らしく、こうした田舎の迷信には半信半疑だった。ある晩、蒸し暑さに耐えかねて家の裏の森を散歩していると、木々の隙間からぼんやりとした光が見えた。懐中電灯を持たずに出たことを後悔したが、好奇心が勝り、光の方向へ足を進めた。やがて、苔むした石段と、風雨に晒されて傾いた小さな社が現れた。社は木造で、屋根は一部崩れ、扉は朽ちて半開きになっていた。中には古びた鏡と、誰かが供えたらしい萎れた花が置かれていた。
不思議なことに、社の周囲だけがひんやりと冷たく、夏の夜の暑さが嘘のようだった。私は興味本位で社の中を覗き込んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。鏡に映る自分の顔が、どこか歪んでいるように見えたのだ。目を凝らすと、鏡の中の私は笑っている—だが、私は笑っていない。恐怖が全身を駆け巡り、慌てて後ずさった瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると誰もいない。風に揺れる木々の音だと自分を納得させ、急いで家に戻った。
その夜、寝室の窓から聞こえる奇妙な音で目が覚めた。カサカサと、枯れ葉を踏むような音が、家の周りをぐるりと回っている。窓の外を見ても、真っ暗で何も見えない。だが、音は止まらず、まるで誰かが家を覗き込むように、窓ガラスに何かが擦れる音が混じるようになった。私は布団に潜り込み、朝まで息を殺して耐えた。翌朝、窓の外を調べると、ガラスに無数の細かい傷がついていた。まるで誰かが爪で引っ掻いたような痕だった。
集落の老人にその話をすると、彼は顔を青ざめ、「お前、あの社に行ったな」と一言。老人によると、その社はかつて村の外れに住む巫女が祀っていたものだという。彼女は村の災いを一身に引き受ける役目を負い、若くして亡くなった。その後、社は放置され、村人たちは近づかなくなった。だが、夜な夜な社の周りで彼女の声が聞こえるという噂があった。「お前を呼んでるんだ。もう遅いかもしれん」と、老人は震える声で言った。
それからというもの、奇妙な出来事が続いた。夜になると、家のどこかで小さな物音がする。最初は床の軋みや風の音だと思っていたが、次第にそれが足音のように聞こえるようになった。ある夜、寝室のドアがゆっくりと開く音がした。目を覚ますと、部屋の隅に人影が立っている。暗闇の中で、長い髪が揺れているのが見えた。動くことも叫ぶこともできず、ただその影を見つめていると、影はスッと消えた。だが、翌朝、床に濡れた足跡が残っていた。まるで誰かがそこに立っていたかのように。
恐怖に耐えかね、私は集落の外れにある寺の住職に相談しに行った。住職は私の話を聞くと、厳しい顔でこう言った。「あの社は、封印の役割を果たしていた。だが、長い年月でその力が弱まり、封じていたものが漏れ出している。お前が社に近づいたことで、それが目を覚ましたのかもしれん」。住職は私に、社に戻り、特定の祝詞を唱えて供物を捧げるよう指示した。半信半疑だったが、他に頼る術もなく、言われた通りにすることにした。
その夜、私は塩と酒、それに新しい花を持って社に向かった。月明かりの下、石段を登る私の足音だけが響く。社は昼間見た時よりもさらに不気味で、まるで生きているかのように空気が重かった。指示された祝詞を唱え、供物を捧げた瞬間、風もないのに社の扉がバタンと閉まった。驚きで飛び退くと、鏡の中に見えたのは、私の背後に立つ女だった。長い黒髪に白い着物、顔は青白く、目は真っ黒に染まっていた。彼女は鏡の中で私を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべていた。
私は叫び声を上げ、社を飛び出した。転がるように石段を下り、家に逃げ帰った。その夜、音は聞こえなかった。だが、安心することはできなかった。翌日、住職に報告すると、彼は「もう大丈夫だろう」と言うだけで、それ以上の説明はなかった。私はその集落にいられなくなり、すぐに引っ越した。新しい家では何も起こらなかったが、あの社の鏡に映った女の笑顔は、今でも夢に出てくる。彼女はまだ私を見ているのではないか—そんな恐怖が、20年経った今も消えない。
最近、昔の集落の話を耳にした。あの社は取り壊され、跡地には何も建っていないという。だが、夜になると、誰もいないはずの森から女の声が聞こえるそうだ。村人たちは口を揃えて言う。「あの社は、決して壊すべきではなかった」と。